127. 「寒水白粥凡骨将死」                  高橋俊隆

寒水白粥凡骨将死
       理懺事悔聖胎自生

荒行堂の御宝前の左右に二句の楠木の柱聯が掛かっています。
「寒水白粥凡骨将死」 
かんすいびゃくじゅく、ぼんこつまさに死(かれ)なんとす
「理懺事悔聖胎自生」
りざんじげ、しょうたいおのずから生ず

京都の深草に居た元政上人の法脈を次ぐ慧明院日燈上人の作と言います。荒行をする理由は、この「事悔聯」に尽きると言います。日蓮宗現代宗教研究所では、次のように説明しています。

「前半は読んで字のごとし。問題は後半である。生まれ変わるための行は理懺事悔であるという。懺悔の為の行である。懺悔を理と事に分ける。理の懺(悔)とは「無相の懺悔」のことで、はた目にはただ「端座」しているようにしか見えないが「実相を思い衆罪は霜露の如く慧日よく消除す」と内観を修すること。罪の元である煩悩は本来無いものであり、み仏の智恵の力によって罪も消えると観ずる。事の(懺)悔とは「有相の懺悔」のことで、観念観法でなく具体的に身体を使って読経・水行して懺悔すること。身心にこびりついた垢をひたすらこすって落とす行である。」

私が荒行に入ると言ったとき、先輩の数人が制止しました。無意味なことであるとか、人間が信じられなくなるとか、荒行に入るのは何もできない者が入る所などと言われました。資格を取る必要があり入行し、荒行堂では感応は磨けないと覚悟していたところ、目に入ったのが、この「寒水白粥凡骨将死」と「理懺事悔聖胎自生」の二聯でした。鬼子母尊神の御宝前において、限界まで行をしようと、私の励みになり心を諌めた有難い言葉でした。この言葉は東日教上人、日延大法尼の教えであったからです。

 鬼子母尊神さまと私の、うそ、偽りのない世界なのです。肝心なことは、鬼子母尊神さまが私を行者として認めてくださるのか否かです。認められた者は終生、行を重ねます。それは来世にも続くことを知っているからです。