128.生きているときの喜びとは              高橋俊隆

常に申しますが、日延大法尼は「お祖師様ならどうされるか」、ということを考えて行動するようにと教えていました。日蓮聖人は出家されたとき、自分の身体は沙門(僧侶)となったのだから、仏に近くなったという実感を持ちました。出家する儀式のなかに剃髪して受戒の誓いを立てます。つまり、これからは戒律を守る生活と修行をすることを誓うのです。その瞬間に肉体も精神も変わるという自覚を持たれたのです。受戒し戒律を守ることを誓った者の肉体は、その時から「戒体」であると考えたのです。戒律は根本的に四苦八苦から逃れるためのもので、それを解脱といいます。日蓮聖人は戒律を持ち仏道修行をした結果である「成仏得道」とは、どのようなことであるかを追求してくのです。

 日延大法尼はこのような出家者としての自覚と修行を、私に教えて下さいました。皆さんも日延大法尼をご存じのように、仏道においては厳しい方でした。仏道には妥協がありません。罪は罪として残り、福は福として功徳を積むからです。お祖師様は見ているという怖さと嬉しさがあります。熱湯のご祈祷も、このような自分に対する厳しさがなければ出来ないと思います。全ての祈祷や供養においてもお祖師様を通してお願いするからです。そのお祖師様から目を背けられれば、祈祷や供養の効験はないと断言できます。

 人間の願いは健康な体と、死後には善いところに行きたいと言うことです。これは古代から変わらない人間の心です。法華経に「現世安穏・後生善処」と説かれているのは、そういう人間の願いを叶えるためです。人間の魂は死にません。この魂のことを仏教では「神」「魄」「意」「志」とも表現しますが、よく分かるのは「識」ではないでしょうか。意識の識、知識の識です。私たちの一生は生・老・病・死の四苦があることは分かりますね。仏教ではさらに、無明(むみよう)・行・「識」・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の十二の因果関係を説いています。つまり、永遠の生命の存続を説いているのです。

 霊魂があるのかないのかと疑う人が大半ですが、自我偈の最初に、

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生 

令入於仏道 爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法

と説いているのは、釈尊の生命は永遠であり、生まれ変わって来て、常に私たちを教化されたと言われるのです。お祖師様さまも生きて私たちを見守っておられるのです。

また、先祖も生きて私たちを見守っています。しかし、ご供養を手向けなければ力がつきません。亡くなった人には供養をし、生きている私たちは生きているうちに善根の功徳を積むことが大事です。日蓮聖人はそれを生きている喜びとしなさいと述べています。

お彼岸、お会式(日延大法尼二十七回忌)には善根を積まれますよう。 合掌