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今年は日蓮聖人のご母堂(大野梅菊)さまの750回忌になります。有名な小松原法難は、その母の危篤の知らせを聞いて帰郷されたときに起きた事件です。
母親の健康がすぐれないことは、1年前に知らせがあり、憂慮されていたことと思います。故郷の小湊には地頭の東条景信がいて、日蓮聖人の命を狙っていました。鎌倉時代は平気で人を殺すようなことが多々あったのです。荘園領主と幕府から任命された地頭との間に起きる闘争は、力関係で勝った者が権利を得るという時代でした。日蓮聖人の弟子の鏡忍房という怪力の護衛も、まっさきに命を取られてしまいます。助けに駆けつけた武士の工藤吉隆も命を失います。工藤吉隆は天津小湊の領主であるのに、いとも容易く東条景信方に討たれています。日蓮聖人もこのとき、眉間を10センチほど斬られます。側頭部にも傷があります。それほど、小湊に帰ることは危険なことであったのです。 この帰郷において、ご母堂はちょうど息を引き取ったときといいます。日蓮聖人は御符を認め清い水で母の口に含ませました。「末期の水」であったと思いますが、日朗上人の文章には母親が息を引き取り亡くなったとあります。そのあとに護符を飲ませたところ生き返ったと書かれています。日蓮聖人も母親の生き返ることを祈り、4カ年の命を延ばされたとのべています。この噂が広がり信徒がたくさん増えたと伝えています。 身延に入った当初、善智法印という真言宗の修験者が日蓮聖人の命を狙います。「白犬の毒饅頭」の事件です。代わりに白犬が毒饅頭を食べて悶死します。このときも、日蓮聖人は犬を蘇生されたと思います。そのようなことがなければ、善智法印は改宗して弟子にはならなかったと思います。このような不思議な経力により、小室山妙法寺が改宗されたのです。 東日教上人、日延大法尼におかれても、法華経の行者としての行力・感応があったからこそ、私たちはすがって信徒となりました。お祖師さまは生きて私たちを見ている、まちがいのない信心をすれば必ず守って下さるという確信が信仰心の源となっています。 現代はそのような感応を持っている行者は少なくなりました。多くは処世術に走ってしまい、そのため前途が多難な時代となりました。今後はさらに進むことでしょう。僧侶はその原点である出家者とはどういう修行生活をすべきか、どのような力をつけなければならないかを反省しなければなりません。妙覚寺の檀家にあっては、尼さんの感応を身をもって知っているのですから、その信仰の原点となったことを、子供や孫に言い伝えてもらいたいと思います。中山の奥の院が衰退した理由はここにあるからです。ご精進専一をお願いいたします。 合掌 |
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