141.日蓮聖人について、分かっていること           高橋俊隆

日蓮聖人について、わかっていること

生地

「かたうみ(片海)、いちかわ(市河)こみなと(小湊)の磯のほとりにて昔見し、あまのり(海苔)なり」(五四歳『新尼御前御返事』八六五頁)

「日蓮は東海道十五ヶ国のうち、第十二に相当る安房の国、長狭の郡、東条の郷、片海の海人が子也」(五七歳『本尊問答抄』一五八〇頁)

出自

「安房国東條片海の石中の賤民が子也」(四九歳『善無畏三蔵抄』四六五頁。浄顕房・義浄房宛)

「日蓮は日本国、東夷東条安房の国の、海辺(うみべ)旃陀羅が子也」

(五〇歳、依智『佐渡御勘気鈔』五一一頁) 清澄寺大衆宛

「片海の海人(あま)が子・・遠国なるうえ、寺とはなづけて候ども修学の人なし」

(五七歳『本尊問答鈔』一五八〇頁。浄顕房 海人

遠国の者、民が子にて候」    (五八歳『中興入道御消息』一七一四頁) 

 ここでは、日蓮聖人は「小湊」の近くの浜に育ったことがわかります。また、親の職業を海浜に関係する旃陀羅という狩猟民とされています。ところが、これは意図的に語ったことと思われます。その一つに、同郷の光日尼の宛てられた御書があります。光日尼の次男である武士の弥四郎が、鎌倉にいる日蓮聖人と対話されたときの様子がのべられています。

「皆人も立かへる。此人も立かへりしが、使を入て申せしは、安房国のあまつ(天津)と申ところの者にて候が、をさなくより御心ざしをもひまいらせて候上、母にて候人も、をろか(疎略)ならず申、なれ(馴)なれしき申事にて候へども、ひそかに申べき事の候」(一一五六頁)

この文章から同郷の弥四郎は、幼少のころより日蓮聖人の志を慕っていたことがわかります。また、母の光日尼も日蓮聖人のことを、疎かには言っていないことが分かります。こののち、数年をへて弥四郎は武士として殉死しています。

 

また、浄顕房に宛てた書状に、旃陀羅・賤民という表現が多いことです。 

『別当御房御返事』浄顕房宛て、五三歳

「これへの別当なんどの事はゆめゆめをも(思)はず候。いくらほどの事に候べき。但な(名)ばかりにて候はめ」(八二七頁)。「これより後は心ぐるしくをぼしめすべからず候」(八二八頁)

これは、故郷の清澄寺の別当職に関しての書状です。日蓮聖人は清澄寺の別当にはならずに身延山へ入られます。そのときに、あえて日蓮聖人は自身の素性を卑下されて言われたと思われることです。 

しかし、日蓮聖人については

・賤民説(「旃陀羅」)―日蓮聖人ご自身がのべていることです―

賎民説とは「旃陀羅」という身分の低い階級にある両親であり、その「旃陀羅」のなかの「漁師の子供」という素性をいいます。つまり、日蓮聖人は粉飾や誇示されることのない性格であったことがわかります。法華経の教えに準ずるのです。

あえて、申しますと、両親の系譜をみますと、これまで言われてきた賤民説は否定され武家説が主流となることを否定できません。むしろ、現在は荘官級の父親であったとされています。