152.感応について                           高橋俊隆

 今年も無事に元旦の熱湯祈祷を行うことができました。有りがたいことと思っています。法華経の経力が一番の要だと思います。この祈祷は法華経の信仰が正しいことを証明することにあります。信仰は大事なことを感じてもらいたいのです。

僧侶の話が面白いから聞きに行こうとか、パワースポットだから行きたいと言う人が大勢います。話を聞いて笑ったり、泣いたりの感動もありますが、はたして法華経に結び付いた話なのか。それで信仰に入るかというと、そうとはならないのが通常です。それは話だけで終わるからです。さらに面白い話を求めるものです。あたらし物好きの、次から次へと、美味しい店ができたと聞けば直行するようなものです。際限のない欲なのです。

病気になると病院に行きます。どこでも良いわけではないので、ネットで調べ、知人から話を聞くものです。たいした病気でなければ内科の医師に診察してもらい、薬を調剤して病気が和らぎます。医師との会話も楽しく長いおつきあいをしていても、いざ、大病となるとどうでしょう。外科の手術が必要となると、真剣に医師を選ぶと思います。法華経はそういうときの良き良薬となります。僧侶は内科医でもあり腕のいい外科医師とならなければなりません。今はその外科医がいない時代となったようです。ですから、仏教離れ寺離れが起きてくるのです。どんなに良い医師であっても技術力が劣っていれば、ほかの名医と言われる医師に頼っていくのは当然です。命がかかっているからです。

名医と敬称される人は絶え間ない努力をしています。医学の進歩は早く新しい治療法や薬剤が開発されています。お酒を飲む暇も無く寝る時間を惜しんで勉強しているのです。ですから名医とされるのです。

僧侶もそうあるべきだと思います。釈尊が出家したのは欲を離れるためです。身に粗末な一枚の布を着しただけです。美味しいものは口にしません。欲を離れて行力(感応)が身につくからです。今の僧侶はどうでしょう。私自身の反省でもあります。熱湯の祈祷は今年30回目になりました。修行は一日の休みもないものです。私自身の信仰に誤りがなかったかを問うのが熱湯祈祷でもあります。そのような地道な精進をしている僧侶が少なくなりました。感応を指導できる僧侶もなおさら少なくなったと思います。