154. 貫名重忠の系譜 高橋俊隆 |
日蓮聖人の親族と教団の形成について はじめに 日蓮聖人はどのような父母に養育されたのか。出家の動機や立教開宗を決意した三大誓願にみるように、聖人の成仏思想は国家・国土に向けられている。そして、不惜身命の「法華経の行者」としての使命を全うされた。日蓮聖人の父親は遠江国の貫名重忠という武士、母は故実の博士という大野吉清の娘とされるが、ここに父母の影響はなかったのか。日蓮聖人の初期教団の要となった信者たちは、貫名氏と大野氏の関係者が多いとすれば、親族を教化された意義が窺えるのである。その一人と思われるぬきなの御局の果たした役割とは何かを考察する。 1 貫名重忠の系譜 「井桁に橘」の紋は日蓮聖人(以下聖人と略称)の家紋とされ日蓮宗寺院の紋標となっている。この家紋は井伊家に淵源していることから、聖人との関連を知る必要が生じる。基本とされるのは日親の『長禄寛正記』(一四六〇年)である。 井伊氏は『寛政重修諸家譜』に「藤原氏良門流」とあり、北家良門の三男利世の系図が収録されている。利世五代の孫備中守共資が遠江国敷智郡村櫛に住み、その子共保が井伊谷に移り住んで井伊氏を称したとある。さらに、共保の出生に関する奇瑞譚が記されている。共資に男子がなかったので、寛弘六(一〇〇九)年に引佐町の産神、井伊谷八幡宮に詣でて子供に恵まれることを祈願したところ、翌年元旦の社参のとき御手洗の井戸脇に捨て子を見つけた。七歳までは八幡宮地蔵寺(現龍潭寺)の住職が育て、成長したこの子を養子とし娘婿となったのが共保とある。のち共保は伊井谷に移りこの奇瑞に因んで井伊氏と名乗り家紋を井桁とした。この井戸のそばに橘の木があったことから、井桁の中に橘を入れ井桁に橘の紋章が生まれたという。即ち井桁に橘の紋の由来である。 この井伊家から貫名郷に居住した貫名氏へ続くのである。この奇瑞に必ず付与されるのは橘の存在である。『日本紋章学』(河田頼輔著五二〇頁)に、「共保が井より出生する故、井桁を以て旗幕の紋となす。共保出生のとき井のかたわらに橘一顆あり、此のゆえに神主橘をもって共保が産衣の紋につけたり。これにより、今にいたるまで橘を衣類の紋とすといえり」、とある。あえて産着に橘紋を縫い付けて養育されたことがわかる。現に龍潭寺で勧請した八幡神の紙幅神像には、「井伊八幡大菩薩真像、井伊元祖備中守共保公者、寛弘七庚戌正月元朝八幡宮御手洗井中誕生。因以井伊為氏以橘家紋者也矣」と縁起が書かれている。井伊の由来はあるが橘の由来については触れていない。尊容は甲冑を着用し岩上に座し弓箭を帯している。後方左に井伊家の井の筆文字の家紋の旗と、正八幡大菩薩の旗が飾られている。清和源氏・桓武平氏などが崇敬した弓矢八幡の武神の尊容である。神仏習合されて正八幡大菩薩と号されている。その鎧の中央に丸に橘の家紋が施されている。これは「井桁を以て旗幕の紋」「橘を衣類の紋」の記述に符号する。この図顕を民族学的に見ると、井桁は井伊氏を表すが橘の紋は共保が橘氏の出自であると解釈できるのではないか。そして、当初は井伊紋と橘紋とを別々に表記していたが、江戸時代になって井桁に橘の家紋と合成されたと言えるのである。鈴木智好氏は重忠が安房に流罪されたときの唐櫃に井桁に橘の紋が付いていた。日朗が土牢で橘の果実を抱いて泣いた故事は、その紋所を知っていたためと述べている。(「聖人御系図の研究」『棲神』第二二号二一〇頁)。 井伊氏は鎌倉から南北朝時代は井伊介と呼ばれていた。介とは国司の次官であり国衙の在庁官人の有力者が任命されることが多い。遠江国における有力在地領主だったことが分かる。井伊氏は惣領家として、赤佐、奥山、井平、石岡、田沢、上野、中野など、与えられた土地名を名乗り一三家以上の庶子家を分出し、浜名湖の東方一帯を勢力範囲としていた。共保から五世の盛直が、山名郡貫名郷の所領を政直に分割して始めて貫名氏を名乗る。この政直から三世が重忠となり 『延喜式』によると遠江は上国にあたる。遠江国の荘園数は五〇余り、国衙領は南北朝期『国衙領注文』によると三三郷を数える。御厨・御園は二〇に達しこの地域の特徴となっている。国府は見付付近と推定され、山名郡は国衙の支配下に属する公領であった。つまり、重忠は戸籍・税務・訴訟・警察などの実務を執行した国衙の在庁官人で、文筆官僚の系譜を引く武士であることを確認できるのである。 |