154.ぬきなの御局 高橋俊隆 |
日蓮聖人の親族と教団の形成について 3 ぬきなの御局 「ぬきなの御局」の存在は中山法華経寺に所蔵される要文紙背文書(裏文書)『破禅宗』に見られるだけである。「法橋長専・ぬきなの御局連署陳状案」と呼ばれる。昭和三六年一一月三日に聖教殿開扉の折に中尾堯氏が発見し、昭和四三年一〇月一五日に『中山法華経寺史料』(一四九頁)に発表された。この陳状は法橋長専とぬきなの御局の連署で、前半部を欠いているが宝治二(一二四八)年六月二日付にて、大夫明仏が法橋長専とぬきなの御局の両人に訴訟を起こし、それに対しぬきなの局らが自らの正当性を陳述したものである。このとき聖人は比叡山に遊学中の二七歳である。 陳状は前半が欠如しているため詳細は分からない。「これらハ一旦のけいき也、再往の難にをよハす、つき(次)に田につほ(坪)をもちゐる事は」と、所領を管理している明仏との農地(田)に関しての問題であることが分かる。ぬきなの御局は今回の問題は一時のことであり再び難に見舞われることはない。また、正論のように地積を測る要求をするが、それ自体こそ御恩を知らない「不足言」の訴訟であると反論した。明仏の人格を責めてはいないが、庭の荒廃の喩えによせて管理の杜撰なことを述べたのである。 ぬきなの御局と連署している長専とは千葉氏の被官である。両人について『袋井市史』(通史編三六一頁)によると、「法橋長専は下総守護千葉頼胤に従う事務管領で、鎌倉にいた人物と考えられている。ぬきなの局はおそらく貫名氏一族で、その名、および長専と連署していることなどから判断して、鎌倉にあって将軍およびその室に仕える女房で、下総に所領を持っていたと推測される。後世、日蓮を貫名氏の出身とする伝承がうまれたことと何らかの関係をもっているように思われるが、他に関連史料もなく、今のところ、両者の間をつなぐ糸は見出せない」とある。また、石井進氏は、「現在の袋井氏内に貫名の地がある。遠江国の公領の一つで、中世には貫名郷とよばれ、当地出身の豪族貫名氏は鎌倉幕府の御家人の一人でもあった。貫名の御局とは、おそらく遠江貫名氏にゆかりの女性で、誰か有力者に仕える女房だったのだろう。「御局」と敬語を用いている点に注目すれば、この陳状の提出先の千葉氏に仕える女房だったのではなかろうか。法橋長専と彼女とが、かりに同族だったとすれば、長専の出自も貫名氏の関係ということになろうか」、と一つの仮説として述べている。(「鎌倉時代中期の千葉氏―法橋長専の周辺―」『千葉県史研究』創刊号所収一一頁)。 ぬきなの御局について確実なことは、@ぬきなの御局は貫名氏の一族であること。Aぬきなの御局と長専は深い繋がりがあること。B長専と共有した土地が下総にあること。そして、推測の域にあるのは、C鎌倉に住み将軍およびその室に仕えた女房であったことである。 @の確認として、「ぬきな」と名乗ることは確実に遠江国の貫名氏に系譜する人物と言える。武士は居住している土地の名を取ってつけた在名が多いからである。貫名を名乗るのは家督を継ぐ者の妻となる。聖人の母親と祖母、重忠の前妻に限られる。母梅菊は重忠と共に家族を護り小湊に居住していたと思われる。鎌倉時代には三妻まで持つことが許されていたので貫名郷での最初の妻とも言えるが、女性は一五歳以前に結婚していた鎌倉時代であること、後述する文学的素養と御局と敬称されることから、高齢となっていた重実の妻で聖人の祖母と判断する。AについてはBの両人が共有する土地があり、長専が関与していることから親族ともいえる。長専が「越前法橋御房」と呼ばれる人物であることから、ぬきなの御局が長専の親族とも言えるのではないか。 Cについて、ぬきなの御局の教養について触れ聖人との共通点を求めて見たい。まず、連署陳状の筆跡について、中尾堯氏は署名から見てぬきなの御局のものとする。即ち、「この陳状の草案が守護所の書記をつとめる富木常忍の、おそらくその執務の場所に近いところで、「ぬきなの御局」が執筆した。できあがった草稿を、法橋長専に示して添削したうえで、別に正式な本書を作成して法橋長専・ぬきなの御局の順に、それぞれ署名し花押を据えた。陳状の内容と、執筆した場所が守護所ということを考えあわせると、千葉介頼胤の家臣である富木常忍と法橋長専、訴訟の当時者である法橋長専・ぬきなの御局両人と大夫明仏という関係が成り立つ。(中略)とくに、ぬきなの御局が執筆した和歌まで添えた陳状の草案は、その文章といい筆跡といい、女性として勝れた能力を身につけていたことがわかる」(『日蓮』二二頁)と、ぬきなの御局が常忍のもとで草案を自ら書いたと述べている。 これに対し佐々木紀一氏は、「本文・ミセケチ・両人の署名、全て一筆である。ミセケチ・無花押ではあるが、文書の伝来からすれば、正文として機能したものではないかと考えられる」、と長専の筆跡と見ているが、注記に「この文書と他の長専文書の筆跡の同定は、後者が書き殴りのため困難である」(「法橋長専のこと(上)」『國語國文』六八一号。七頁)、と、長専の筆跡とは断言していない。また、連署陳状の語句に『本朝文粋』や『和漢朗詠集』『平家物語』『曽我物語』などの軍配記に共通するものがあるとして、これらは中世寺院の唱導や注釈活動に密接に結び付くと高く評価されている。(「法橋長専のこと(下)」『國語國文』六八二号。三四頁)。ただし、聖教紙背文書の中にこの連署陳状以外には、中世和歌の素養の文才を確認することはできないと述べている。つまり、中尾堯氏が述べるように、連署陳状の文章はぬきなの御局が書いたと言えるのではなかろうか。同じように「天台肝要文」の紙背文書に「こてう陳状」がある。(保立道久稿「日蓮聖教紙背文書、二通」野口実編『千葉氏の研究』所収二一八頁参照)。「いぬまさ丸」が「かすが」の遺産相続について訴えたことによる「こてう」という女性の自筆の陳状である。連署陳状の文字の大きさ行間などの筆法が類似していることから、女性の文字として連署陳状もぬきなの御局の自筆と思われるのである。 なを、『本朝文粋』(建治二年の書写奥書)が身延山に所蔵され重要文化財となっている。『立正安国論』は四六駢儷体の漢文体で書かれ、『平家物語』の引用についても遺文の所々に見られる。(山下正治稿「日蓮遺文の平清盛」『立正大学文学部論叢』一〇四号四三頁)。今成元昭氏は『平家物語』などの軍記物語を引用して聖人は真言破折をされたと述べているように(「日蓮の軍記物語享受をめぐって」『日蓮教団の諸問題』所収三六六頁)、聖人のこれらの教養の源をぬきなの御局に求めることができると思われるのである。聖人が鎌倉に遊学した折に、佐々木紀一氏が指摘するこれらの文献を、「読み解き手を入れる能力のある」ぬきなの御局の元に滞在して、習得した確率は大きいのである。即ち、Cの鎌倉に住んでいた女性であることを確認したかったのである。問題は将軍およびその室に仕えた女房であったか否かである。 そこで、前述したようにぬきなの御局と比企能員の接点を考察する。そこに東福寺を建立した九条道家との繋がりがあることを指摘したい。比企能員の乱にて能員の子として存命したのは能本と姉の若狭局である。若狭局は二代将軍頼家(在職一二〇二〜〇三年)の側室となり一幡と竹御所の母となる。竹御所は三代将軍実朝(在職一二〇三〜一九年)の猶子として異母兄の公暁と共になり、四代将軍頼経(在職一二二六〜四四年)の側室となる。この頼経の父が九条道家である。頼経と竹御所の子が五代将軍頼嗣(在職一二四四〜一二五二年)である。頼経は北条経時に追放され、頼嗣は時頼より追放される。能本は姪竹御所の懇請により赦されて、嘉禄年中(一二二五〜二六)に鎌倉に帰り儒官として任用された。頼朝の血を継ぐ竹御所は政子に庇護された。が、難産のため母子ともに死去し、これにより頼朝の直系子孫は断絶した。能本は嘉禎元(一二三五)年、竹御所の遺言に従い比企谷に新釈迦堂を建立し埋葬した。現在も妙本寺の寺域にある。 道家に着目するのは、道家が創建した東福寺に「日蓮柱」が伝えられていることによる。所伝によると、円爾(聖一国師)が東福寺を建立すると聞いた聖人は、その恩に報いるため寛元三(一二四五)年に一本の巨木を寄進している。(『東n宦x淡交社刊八三頁)。この柱は法堂の巽に立てられた。このとき聖人は二四歳にて円頓坊を預かっていた。円爾は入宋学僧で東福寺創建のときは、三学を修め真言・天台止観を専修とした寺であったので(『大日本古文書』東n尓カ書之一。三二頁)、開宗前に謁見して学んでいたのである。明治一四年に法堂などを焼失したが、昭和九年に東郷平八郎氏が代表となり台湾阿里山の檜の柱を寄進したことが、法堂の前の石碑(「日蓮柱之碑」)に示されている。東n宸フ立場と厚遇からして聖人が寄進したことは事実であると思われるのである。 開基の道家は嘉禎二(一二三六)年に東福寺建立の発願をした。寛元二(一二四三)年に円爾を招請し落慶は道家没後の建長七(一二五五)年となる。承久の乱後に道家たち九条家は権威を誇っていたが、寛元四(一二四六)年三月二三日に北条経時は執権を時頼に譲った。これに反発した前将軍頼経と名越光時らは時頼排除を謀った。しかし、幕府は名越光時・千葉秀胤を配流、七月一一日に頼経を京都へ送り道家は失脚した。かわって近衛兼経が摂政に再任され近衛家の得意時代となる。兼経の妻は道家の娘仁子である。兼経と仁子の娘が宰子でありその子供が惟康親王である。猶子として日昭が法印に任じられ、宰子は義妹となる。 はたして聖人が東福寺に巨木の柱を寄進されたのか。大方の意見は賎民の子である聖人にそれ程の財力はなかったと見てこれに触れない。しかし、日蓮柱の浄財はぬきなの御局が調達したとすればどうだろう。その理由として財産を所有していたこと。材木の調達ができる立場にあったこと。九条道家・比企能本との親密な関係があったことを挙げる。まず、財産については鎌倉以降の武家社会では、家を守るために妻に財産となる領地が譲渡され妻が家政を取り仕切っていた。『磐田市史』(通史編上巻四五九頁)によると、和田義盛の妻は義盛が反乱を起こした罪で所領を没収され囚人となっていたが、恩赦を受け返納されている。鎌倉時代は妻や女子も平等に所領を分配された均分相続で、自由に処理できたのである。また、一族の所領は同族が受け継ぎ知行を確保できたのである。(笠松宏至稿「中世闕所地給与に関する一考察」『中世の法と国家』所収四二〇頁)ぬきなの御局は貫名氏の財産を相続し、貫名郷近くに居住していた石野・赤佐氏に土地財産の管理を任せていた。貫名氏を継いだのは赤佐氏であることからすれば、赤佐氏が助成していたと言える。 材木の調達については、遠江の国衙領は熊野新宮造営のための費用を支出する国になっていたこと。もともと山名郡は白河・鳥羽・後白河の上皇の三代起請地として、平安末期には熊野三山の所領となっていたのである。静岡県下にある熊野神社一三五社のうち、遠江には半数をこす七三社が祀られていた。旧袋井町を含む磐田郡が二一社で最も多い。(『静岡県神社志』)。つまり、熊野新宮造営に伴い材木を調達できる組織力を持っていたのである。その中には千葉介の存在も考えられる。(『中山法華経寺誌』二五三頁)。ぬきなの御局が仕えた人物は、能本が聖人の篤い信者であることからして比企氏側と思われる。しかも道家と能本は姻戚として親密な関係であったから、東n尅「営を祝して巨木を寄進したのである。つまり、Cの鎌倉に住み将軍およびその室に仕えた女房であったことの明かしとしたい。 |