157.重忠の親族と義浄房について 高橋俊隆 |
日蓮聖人の親族と教団の形成について 4 重忠の親族と義浄房 重忠が領家の尼の世話になったことは聖人が自ら述べている。(『清澄寺大衆中』一一三五頁)。重忠は安房小湊においては漁業権を持つ領家のもとで、荘官的な立場からその管理を行っていたとするのが定説となっている。東条には頼朝が寄進した東條御厨と元より神庤として祭祀されていた天津御厨(「在安房国東條天津庤社」『安房志』三七一頁)がある。安房は朝廷に海産物を中心として貢納した御食国であった。御厨には天皇に贄を捧げてきた供御人が大勢いた。つまり、安房は古代より都の文化や全国の情報が入ってきた所で、重忠はこのような御厨のある小湊に流罪された。 東条郷には海上交通に長けた伊豆狩野氏と同族の工藤吉隆が天津を領有していた。聖人が伊豆に流罪されたとき、度々訪れていたのはこのためである。工藤氏と重忠、吉隆と聖人という関連性が窺える。つまり、重忠は東条郷内の工藤氏にも仕えていたと思われるのである。遠江も海運の拠点であり、その能力を有していたからである。その御厨の実態が変化したのは、弘安二年に「長狭郡之内東条の郷、今は郡なり(中略)今は日本第一なり」(『聖人御難事』一六七二頁)と述べていることから窺える。建長五年ころ領家の尼と地頭の景信が清澄寺の権限を争い景信が敗訴した。これにより二間川以北の地域は領家方の所有に留まった。領家と景信の領有する地域が相違していたため、文永元年一一月一一日に小松原法難において聖人は襲われ吉隆が殉死したのである。この影響により文永一二年二月一六日の頃は、「彼者すでに半分ほろびて今半分あり」(『新尼御前御返事』八六八頁)と景信の勢力が弱体化したことを述べている。 東條御厨の跡は景信の邸跡に近いことからして(『千葉県の歴史』資料編中世一。六四頁。千葉県教育振興財団『研究紀要』第二八号「西郷氏館跡が中世東條御厨地頭東条氏の屋敷跡と推測」一四〇頁)、重忠は清澄寺周辺の領家方の領域と、工藤氏の天津御厨の管理を行っていたと言えるのではないか。領家の尼は荘園を管理でき信頼できる人物を求めていたはずである。前述したように重忠は遠江国において在庁官人の職にあったことが分かった。小湊に流罪された重忠は領家のもとに預けられ、その職分を認められて領家の荘官的立場になっていったということになる。ただし、荘官は地頭と違い領家の意向により罷免することができた。聖人が述べる恩義はここにあったと思われる。 特に領家の尼と景信との訴訟において、聖人が勝訴に導いたのは父親の教育を受けていたからではなかろうか。地頭とは現地で年貢収取・治安維持にあたった武士で、下地管理権・警察権・徴税権の権限をもっていた。景信は地頭領主制を形成していく過程に清澄寺の私領化をすすめたのである。清澄寺は捕獲禁止・殺生禁断の神鹿が飼われていたのにも関わらず鹿狩りをした。そして、清澄寺・二間寺を念仏に改宗しようとしたのである。鹿狩りは馬術の修練、弓矢に習熟するために行ったものか。また、鹿の皮革や角は鎧などの武具や獣膠としての必需品であることから、幕府に献上することが目的だったのか、いずれにしても領家への侵奪にほかならない。重忠はこの建長五年には八二歳の高齢となっていたため聖人が代理となったのである。そして、地頭と荘園領主の争いは幕府の法廷で裁判することになる。この訴訟に聖人が関与されたのは、相応の知識と経験をもつ父親の役職を継いだためと思われる。(小島信泰著『日本法制史のなかの国家と宗教』五六頁)。 この東条郷に小林実信の子男金実長が住んでいた。実信は重忠の弟であることは先に述べた。藻原城主の斉藤兼綱は『茂原市史』(七三頁)によると、遠江国の蒲生の領主であったが、元久元(一二〇四)年に鎌倉に反したので、領主三浦泰村に預けられた。兼綱は一族と来て上藻原・鷲巣・岩川の三村をもって藻原荘と称し、農事の開発、文化の進展をはかった。同族に墨田時秋(中老日朝。長男日秀藻原三世)がいると記述している。実信は民部実信と称されることから、民部省に属し荘園の管轄を行っていたことが分かる。日向が民部阿闍梨と称された理由である。実信は赦免されて京都へ帰るが、子の実長は妻が興津の佐久間重貞の妹であったので男金に残った。その妻は聖人から光日房・光日上人と呼ばれた光日尼妙向である。実長に子供が三人いる。長男は男金新大夫入道、次男は弥四郎で武士であったことが遺文に見える。流罪人とはいっても身分は保障されていたことが分かる。 弥四郎は鎌倉名越の聖人を尋ねている。『光日房御書』(一一五六頁)に、聖人が鎌倉で講説している席に弥四郎が内密の面会を求めたことを回想している。自分は武士となった身であるため一命が危うい死の恐怖と、寡婦になっている母親への不孝の心配を吐露した。自分が死ぬことがあれば母を弟子にして欲しいと、母親の存生と後生の成仏を願ったのである。聖人の親族としての情感が伝わる。弥四郎は幼少の頃より聖人の志を慕っていたことが分かり、母の光日尼も聖人のことを疎かには言っていないことが分かる。光日尼の三番目の子供は日向で、身延の第二世、祖父が流罪された地に藻原寺を開いた。聖人が池上に入り、波木井実長から預かった栗鹿毛の名馬を藻原の斉藤兼綱に預けた理由がここにある。 注目したいのは「御遺物配分事」(『宗全』第二巻一一〇頁)の記述である。聖人の葬送儀が行われた弘安五(一二八二)年一〇月一四日のあと、御遺物が第子檀越に分け与えられた。それを日興が書き留めたものである。ここに、「御きぬ(絹)一安房国新大夫入道。御きぬ一かうし後家尼。御小袖一安房国浄顕房。御小袖一同国義成房。御小袖一同国藤平」とある。この最後の五人は聖人の親族であることを指摘したい。日順による『御書略註』には安房の男金新大夫入道は向師の舎兄。清澄の浄顕房は聖人の御舎兄。藤平は聖人の御舎弟と説明している。この最後の五人に「御」の字を冠したのは、日興が尊敬の念をもって書かれた人物だからである。新大夫入道は聖人の甥。弥四郎の言葉からして安房には住んでいなかったようである。「かうし後家尼」は「向師後家尼」のことで日向の母光日房妙向のことである。伯母にあたる人である。墓所は女金にあるという。(『安房志』三七五頁)。 次の浄顕房・義浄房は清澄寺の兄弟子になる。聖人より年長であることは、「各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします」(『報恩抄』一二四〇頁)と、敬語を用いていることから分かる。浄顕房は聖人の兄という説があり、最後の藤平重友は聖人の弟であることは間違いない。この重友が病の父の遺言をまもり遺骨を遠江国石野の正覚寺に埋葬している。貫名郷の貫名氏を継いだのは赤佐俊直から四代後の奥山盛朝とされる。日興が記載した順に従えば義浄房は聖人の兄と言えるのではなかろうか。聖人が重忠の三男・四男という異説は仲三が入るか否かにある。また、『宗旨名目』に仲三が聖人の父となっているように仲三という人物が確かではない。次男は夭逝と記されているが、この次男が幼少にして家を離れた浄顕房であり、仲三が義浄房と考えられるのである。三人の兄が出家していたので子孫は残らなかったことになる。 |