158, ぬきなの御局と富木常忍の母                    高橋俊隆

日蓮聖人の親族と教団の形成について
5 ぬきなの御局と富木常忍の母

梅菊については『本化別頭仏祖統紀』(六二頁)によると、清原氏(大進家)の出自とし舎人親王の後裔、父は畠山一族の下総八幡郷大野吉清、母は道野辺右京の娘梅千代とある。兄に大野政清がおり政清の子に、聖人と従兄弟になる曽谷教信(大野次郎兵衛教信)がいる。梅菊の誕生地である鎌ヶ谷市道野辺の大野氏の邸跡に、身延第三世三位公日進が元徳元(一三二九)年に妙蓮寺と称して建立している。父親の大野家は大進家の系譜、また、代々故実の博士とある。大進と言うことから中宮職・皇太后宮職・京職・東宮坊などの判官のうちの上位で、后妃に関わる事務などに携わった家系であることが分かる。故実の博士というのは問注所の役人で、武家社会の儀式・法制・作法・服飾などの規定に関する役職を言う。つまり、母梅菊は格式の高い有職故実の教育を受けていたのである。

教信は下総曽谷郷の領主で千葉氏の家臣である。父吉清と同じく問注所に勤めていたとされ、弘安四年閏七月一日付けの『曽谷二郎入道殿御報』(一八七一頁)に、蒙古防備のため西下することが記されており御家人であったことが分かる。この曽谷城の北東に大野城がある。系図から教信の弟である金原法橋・大進阿闍梨・三位房日行や、子息の日進・山城入道・日源・芝崎の名が見える。乗明の子に日高がいて聖人の門下として教団を護持していたことが確認できる。また、乗明の妻恒は道野辺氏の出自である。曽谷氏と大田氏の親族関係が分かる。乗明も同じく問注所に出仕し訴訟関係に従事していた。乗明の邸は中山法華経寺にあったが、元応二(一三二〇)年に千葉胤貞から日祐に譲与されており、この地の地頭領主ではなかった。 (中尾堯著『日蓮宗の成立と展開』四〇頁)『市川市史』(第二巻一九〇頁)に乗明は曽谷郷に大田名(応永四年六月八日の日尊譲状)・大田屋敷の同じ地名の存在があったことと、延文五年一一月二九日の某具書案」(『浄光院文書』に、「可有早御知行下総国八幡庄蘇谷郷内大田入道居屋敷一宇并田数七反六十歩事右、任先例、無相違可有御領掌」とあることから、大田氏の本拠は曽谷郷にあったとする。つまり、大野・曽谷・大田氏は親族であることが分かる。常忍の先妻が乗明の姉という説もある。このように親族に聖人の信徒が多いことが分かり、母の出自は大野氏であると判断できるのである。

 最後に聖人と富木氏の関係について、先にぬきなの御局と長専の連署陳状から、ぬきなの御局と常忍が知悉の間柄であったことを確認した。さらに、この関係は常忍の母から繋がっていたと思われる。聖人と常忍の母との繋がりは周知の『富城殿女房尼御前御返事』(一七一〇頁)に、むかしはことにわびしく候し時より、やしなわれ、まいらせて候へば、ことにをん(恩)をもく、をもひまいらせ候」の文に窺える。

常忍の母は父千葉胤正が京都に在ったときの子供で、鎌倉に下り実朝の側近として仕えたことにより下総局と称している。実朝の在職は一二〇三年九月七日から一二一九年一月二七日の期間である。まだ、聖人も常忍も生まれていない。しかし、下総局としての常忍の母と、ぬきなの御局の接点をここに窺うことができまいか。ぬきなの御局の方が年長である。大野邸の妙蓮寺と常忍の若宮までの距離は、直線で約五`という近い距離にある。教信が開山となる法蓮寺までの距離は直線で約三`である。大野氏と富木氏は地縁も深いことが分かる。富木常忍・曽谷教信・大田乗明は、『観心本尊抄』を理解できる学識を有して教団を支えた。ぬきなの御局と常忍の母は、小湊の重忠と大野の梅菊を繋げた人物であると言えよう。聖人は幼少の頃から常忍の母の支援を受けていた。遺骨は聖人の膝下に埋葬された。そこにはぬきなの御局との繋がりがあったからである。

おわりに

日蓮聖人は父母の成仏を願って仏門に入り最初の信徒にされた。心血を注いで親族の教化から始めた。安房や下総の親族たちは、各々が拠点となって周辺の有縁の者を教化した。教団が形成されたのである。そして、ぬきなの御局の存在は鎌倉進出の要となったと言えよう。 勧学院嗣学 妙覚寺住職