159. 時光の「乗る馬もない」                       高橋俊隆

「欲の深い僧侶と思わないでほしい」、と前置きして布施の功徳を説きます。これは身延に近い冨士宮の上野郷の領主、上野時光に宛てたものです。仏教は布施の大切なことを説きます。布施にも金銭などの財産や、奉仕・給仕などの身体の労力も身施という布施になります。

時光は両方の布施をされていました。父親の信仰を引き継いだものですが、日蓮聖人は子供だからといって親の信仰を引き継ぐ者は少ないと述べます。時光の顔や姿、声、動作に父の南条兵衛七郎を思い出されていました。

駿河は生姜の産地であったので、たくさんの生姜を身延に届けています。日蓮聖人が五十八歳くらいから非常に多くなります。調べてみますと、この種の生姜は胃腸病の薬だったそうです。日蓮聖人のお体を心配されての供養だったのです。

また、近くに熱原(加島ともいいます)という処があります。この土地の有力者や農民が法華経を信仰し、近くの実相寺や滝泉寺のお寺を日蓮宗に改宗させるほどの力をつけました。ところが、この場所は幕府の北条氏の支配地でした。当然、役人や寺の院主・院主代理という僧侶も北条氏の関係者から来ます。ここに、紛争が起きたのです。しかも、熱原の農民が苅田狼藉という他人の稲を刈り取って盗んだという罪をなすりつけたのです。

二十人、捕縛されて鎌倉に引き立てられ、取り調べもないうちに神四郎などの三人が斬首されるとい事件がおきたのです。これを熱原法難といいます。時光も同じ信者でしたので、熱原の農民などを匿い援助の手をさしのべます。しかし、時光は幕府に仕える身分でしたので、とうぜん、お咎めがあります。課税を多くされ、労働の賦役も厳しくされたのです。ですから、そういう時光の生活を、 

「わづかの小郷にをほくの公事せめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし。かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもひやらせ給て、ぜに一貫をく(送)らせ給へるは、貧女がめおとこ二人して一の衣をきたりしを乞食にあたへ」『上野殿御返事』一八三〇頁

と、時光は自分の乗る馬もない、今なら車やバイクになります。妻子も着る衣服に不自由されていたと述べています。それほどまでに徹底して信仰に尽くされていました。日蓮聖人はそれでも、布施の功徳を説いて信仰を励まされたのです。欲の深い僧侶と思わないで欲しいという言葉に日蓮聖人の心情が窺えます。心の中では、そこまで苦労をしなくても良いと思いながらも、法の尊い道を教えられたのです。