163..塚原での生活(『正法』 157号)              高橋俊隆
  塚原の三昧堂

生きて帰る保障のない佐渡への道。風のかすかな音、草木がなびくたびに身の危険を感じながら、寒風が吹き荒れる佐渡への渡航でした。

守護所(しゅごしょ)の役人に連れられて、十一月一日に人里から離れた塚原(つかはら)三昧堂(さんまいどう)に移されます。塚原は国中(くになか)平野のほぼ中央にあり、遺骸を土葬した墓所でした。諸霊を供養するために設えられた三昧堂に謫居されます。

天井の板は外れ壁も崩れていますので雪が舞い込みます。その祭壇に大切に持参してきた立像(りゅうぞう)釈尊の尊像を安置します。雪が積もる床に()()を敷き簑を着て夜を明かします。

まわり一面は雪に埋もれ、夜は雷鳴が響き、昼は雲が低く垂れ込み日の光りも射しません。「人もかよわず」と言うことから、与えられた食糧も満足ではなかったと思われます。

 しかし、五十歳になられた日蓮聖人の心は豊かでした。笠をさしながら『摩訶止(まかし)(かん)談義(だんぎ)をされ、唱題を正行(しょうぎょう)とされて過ごされます。忍難慈(にんなんじ)(しょう)の意思と、それを成し遂げていく法悦(ほうえつ)に満ちていたのです。

常忍に最初の知らせ 

十一月二三日に、佐渡から最初の書状を富木(とき)(じょう)(にん)に送ります。鎌倉から同行してきた若い弟子を帰したので、守護所や島民のこと三昧堂にての生活を聞くように伝言します。

佐渡も念仏信仰が強く、島民からは阿弥陀仏の仇敵(きゅうてき)と疎まれ、飢えて死ぬか、打ち殺されるかと思う冷遇を綴ります。

塚原に在っても鎌倉の信者のこと、弘経の情念は絶えませんでした。松葉ヶ谷(まつばがやつ)草庵(そうあん)に所蔵していた書籍を散在しないように、引き続き天台(てんだい)大師講(だいしこう)を行なうよう指示されます。

 

阿仏房の涙

最初の信徒となったのは阿佛(あぶつ)房です。阿仏房は遠藤(えんどう)(ため)(もり)と言い、(じゅん)(とく)天皇が真野で崩御されたあとも、常に念仏を称え冥福を祈ったことから、阿仏房と称されました。

剛直な阿仏房は日蓮聖人を邪見(じゃけん)の僧と思いました。しかし、堂を訪ねてみると外に響く読経の声に思わず手を合わせます。そして、舎利(しゃり)(ほつ)は法華経を信受して華光(けこう)如来(にょらい)となったように、法華経は誰でも平等に仏となれること、釈尊は常に私達を導いておられることの尊さを知ります。承久(じょうきゅう)の乱にて三人の上皇が敗退したのは、真言師(しんごんし)に祈祷をさせたことの誤りを切々と聞き入ります。阿仏房の頬に悦びの涙が流れたのです。

北条宣時からは餓死か病死にせよと内々の命令がでていたので、地頭や念仏者は昼夜に近づく者を牽制していました。阿仏房は妻の千日(せんにち)(あま)を伴い深夜に周りの目を憚りながら、食物を隠して一里の道を通います。

「阿佛房にひつ(櫃)をしおわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわす(忘)らむ。ただ、悲母の佐渡の国に生まれかわ(代)りてあるか」(『千日尼御前御返事』一五四五頁)

 闇夜は足元が見えません。炊き上がった飯を櫃に移し入れ、何重にも衣類を巻きます。身に着した外着をも脱ぎ日蓮聖人の防寒にされたのです。ついに番人から咎められます。

 

法論と内乱の予言 

流人で生きて帰った者はいないから、斬首しようとの情勢になります。守護代の本間(ほんま)重連(しげつら)はこれを許しません。なぜなら、北条時宗(ときむね)の『副状(そえじょう)』に「大事な人なので殺してはならない」と厳命されていたからです。

そこで、二ヶ月半たった文永九年一月一六日に、重連が立会い三昧堂の前庭に警護の者を配置して法論(ほうろん)が行なわれます。相手は佐渡の仏教界を統率し念仏者の棟梁と言う印性(いんしょう)房。律宗の良観の法輩の(しょう)()房たちです。それに、越中や奥州から学僧を招請しての法論となります。日蓮聖人は比叡山で鍛え上げた堅者(りっしゃ)であり、鎌倉では大勢の碩学と問答を重ねた法戦論者です。ですから、「利剣(りけん)をもって瓜を切る」、と表現されるように容易く論伏したのです。

その場から帰る重連を呼び止め、武士ならば急ぎ鎌倉へ上り高名をあげて恩賞を賜るべきと助言します。重連はことの重大さに気づかずに去ります。

 

二月騒動

 二月一一日、流罪されて百日の内に鎌倉内乱が起きます。家督を相続した時宗を妬んだ異母兄の(とき)(すけ)が謀反を企てたとして、鎌倉の名越(なごえ)(とき)(あきら)(のり)(とき)を殺害し、六波羅探題南方を務めていた時輔を誅殺した騒動です。これにより時宗は権力支配を確立し、蒙古政策に影響を与えました。四条頼基(しじょうよりもと)()()氏の本拠地伊豆にて騒動を聞き、主君を護って殉死するため馳せ参じます。

この二月(にがつ)騒動(そうどう)こそ自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)の「同士討(どしう)ち」(『撰時抄(せんじしょう)』一〇五三頁)の予言が的中したことでした。『立正安国論』の他国侵逼(たこくしんぴつ)も現実のこととして受け止められるようになります。

鎌倉からの急使は二月一八日に佐渡に着きます。塚原問答のときに忠告されたことが事実となったのです。その夜に早船を仕立て鎌倉に向かう重連は、日蓮聖人に合掌して救けを懇願します。蒙古から攻められることも事実と受け入れ、何よりも後生には成仏できるようにと願ったのです。島民も「神通(じんつう)の人」と認め帰依し始めたのです。

この騒動により土牢に幽閉されていた(にち)(ろう)上人たちは放免され、信徒への弾圧(だんあつ)も緩みます。大進阿闍(だいしんあじゃ)()は赦免運動を行いますが、日蓮聖人は鎌倉にいたら動乱に紛れて殺害されたかも知れず、流罪には理由があるとして制止されます。

 

門下の疑いと三大誓願

法華経には「現世(げんぜ)安穏(あんのん)」と説かれているのに、なぜ、法華経の行者は迫害を受け、諸天(しょてん)(ぜん)(じん)の守護がないのか。鎌倉の信者は拘禁(こうきん)、所領没収などの弾圧(だんあつ)を受け、苦しみに耐えかねて動揺していたのです。

日蓮聖人はこの疑いに(こた)えなければならなかったのです。それが『(かい)目抄(もくしょう)』です。『開目抄』は二月の初旬に執筆を終え、紙不足のため原本そのままを頼基の使者に持たせました。

「頚切るゝならば日蓮が不思議とどめんと思て勘たり」『種々御振舞御書』九七五頁)

 鎌倉から処刑の下知(げち)がくるという切迫感があり、書体や改行に乱れがありました。「かたみ(形見)ともみるべし」(『開目抄』五九〇頁)と、弟子や信徒が信仰に迷わないために、日蓮聖人の心や教えを書き遺されたのです。

とくに日蓮聖人は釈尊の使いとしての実感を強く持たれました。佐渡にて書かれた六〇余編の著述などのうち、二〇余編は法華経の行者としての信仰の尊さを述べています。「八十万億那由陀(はちじゅうまんおくなゆた)の代官」(『寺泊(てらどまり)御書(ごしょ)』五一五頁)との認識は、上行(じょうぎょう)菩薩(ぼさつ)の確信となります。泥中(でいちゅう)より咲き出でた蓮華のように、日蓮聖人の魂魄(こんぱく)(さん)大誓願(だいせいがん)の果実となられたのです。

阿仏房を筆頭に佐渡の信者は命がけで日蓮聖人を護ります。日蓮聖人は勇気と活力を得たことでしょう。

三月二十日付けの『佐渡御書』(六一八頁)に、京都・鎌倉の内乱の動向を尋ねています。二月の騒動で戦死した人のこと、弟子や伊沢(いざわの)入道などの信者の身の安全を心配されます。一人でも漏れてはいけないので、「()()い」て、読み聞きし信心に励むようにと慰諭されます。

また、書籍を佐渡へ来る人に持たせるように頼まれたことから、鎌倉との往来が行われていたことが分かります。

 

国府入道の給仕と一谷

すべての島民が法華経の信者になると畏怖(いふ)されるまで、日蓮聖人の影響は強まります。良観の弟子の道観は鎌倉に上って上訴したので、宣時は日蓮聖人の信者になれば追放するか、入牢させるという私的の命令文書を下します。これにより、三昧堂の前を通行しただけでも捕縛された者、供物を行ったとして追放される者がでました。

さて、重連は鎌倉に上ったため統治者が不在になりました。念仏者たちはこの間隙を利用します。まず、阿仏房の住居を強制的に取り上げ追放します。つまり、日蓮聖人を餓死させようとしたのです。しかし、国府(こう)入道(にゅうどう)が一命をかけて給仕されます。 

「尼ごぜん並に入道殿は彼の国に有時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人々なり」

(『国府尼御前御書』一〇六三頁) 

 父母の(かたき)のように(うら)まれ耐えた日蓮聖人の頬に、いつまでも涙が流れます。国府入道夫妻の懸命な給仕により生命を維持できたのです。

さらに生喩房たちは、信徒の給仕を阻止すべく四月十三日(『啓蒙(けいもう)』)に、(いちの)(さわ)入道(にゅうどう)のもとに日蓮聖人を移居させます。直接、監視するためでした。

執拗に迫害は続きますが、佐渡の信徒たちとの絆は深まり、鎌倉の信者は万里の波濤を越えて佐渡へ訪れるのです。