母の重病と安房帰省　妙連尊尼死去

　日蓮聖人が故郷の安房（千葉県鴨川市小湊）へ帰省された理由は不明とされています。時を同じくして病母蘇生が、法華効験の日蓮聖人の祈祷修法として注目されます。日蓮聖人の遺文の中に父母に宛てた確実な書状はありません。両親は故意に書状を破棄して残さなかったという見解があります。弟子を通してなどの何らかの連絡網があったと思われます。そうしますと故郷安房から、母が病気であるとの知らせがあり、病母を見舞うために小湊に向かわれたとも言えましょう。

ただ『伯耆公御房消息』の文面によりますと、母親の病気は一年前からのことで、それが重くなって危篤の知らせがあったと受けとれます。

「然に聖人の御乳母のひとゝせ（一年）御所労御大事にならせ給い候て」　　　　　　　　　　　（一九〇九頁。日朗上人代筆）

日蓮聖人は父の墓参のことや、道善房・兄弟、安房の信徒を案じていた折、急な母の危篤の知らせを受けます。また充分に身支度を整えない急な帰省であったと思われ、日蓮聖人の情愛が窺えます。

日蓮聖人は建長六年の安房追放から、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪の１１年を経て４３歳になっていました。安房は景信が日蓮聖人の命を狙っていたので、よほど大事なことがなければ東条に近づかなかったと思います。『妙法比丘尼御返事』に、

「地頭東條左衛門尉景信と申せしもの、極楽寺殿・藤次左衛門入道、一切の念仏者に、かたらはれて、度々の問註ありて、結句合戦起て候上、極楽寺殿の御方人、理をまげられしかば、東條の郡ふせ（塞）がれて入事なし。父母の墓を見ずして数年なり」（一五六二頁）

と、回顧した文面にその心境が窺えます。日蓮聖人は覚悟を決め日朗・日持・日澄上人を連れ鎌倉の庵室を離れます。朝比奈の切通しを進み六浦道の峠を越えて六浦港に出ます。　

船に乗って上総の港に直行したと思われます。建長五年に小湊から鎌倉に渡航するにあたり、岡本浦が波浪のため南無谷（南房総市富浦）の泉沢権頭太郎の館に宿泊し、数日、滞在することになります。このとき日蓮聖人は高台から祈願をしたところ、波が静まり船出ができたとあります。これに感じた泉沢氏親子三人が帰信します。老婆（妙福）が日蓮聖人の衣を洗った由縁から「はだかの祖師」が有名です。

文永年間にも数度、泉沢氏を尋ね妙福寺が建立されていますので、小湊へ帰省される時には必ず滞在されたと思います。保田から長狭街道を辿って蓮華寺に身を寄せ、蓮華寺を出て景信の領地である東条郷を抜けて片海の生家に向かい、久しぶりに家族や親しい人と会ったと思われます。

絶えて久しき小湊の実家に帰ると、家内に人が騒ぎ、折りしも母はちょうど息を引き取ったところと伝えます。定業を転じるのは法華経の教説、日蓮聖人は壇を設け曼荼羅本尊を認めます。随身の立像釈尊を奉安します。仏・菩薩に法華経の行者の覚悟を訴え、瀕死の生母の蘇活を祈ります。御経を読誦し陀羅尼を唱え、秘訣の御符を潤わした清水を母の口に灑ぎます。そのとき活然として臨終の床から蘇生されます。（『高祖年譜攷異』『日蓮大士真実伝』）。先ほどの御遺文に、

「然に聖人の御乳母のひとゝせ（一年）御所労御大事にならせ給い候て、やがて死せ給いて候し時、此経文をあそばし候て、浄水をもつて、まいらせさせ、給いて候しかば、時をかへず、いきかへらせ給いて候経文也」　　　　　　　　　　　

「此経文」といいますのは病気平癒の「二十八字」といい、法華経の七巻薬王品の文です。

「此経則為。閻浮提人。病之良薬。若人有病。得聞是経。病即消滅。不老不死」

「護符」を作るため、寅卯辰の刻に精進河の水を取り寄せて、経文を灰に焼いて水一合に含ませて飲用させたとあります。

そして、『可延定業御書』に四ヵ年寿命を延ばしたことを述べています。

「されば日蓮悲母を祈りて候しかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」（八六二頁）

　日蓮聖人は定業でさえも転じると、法華経に説かれている証拠として母の命を延ばされました。母の妙蓮尼が死去したのは文永四年八月一五日です。「四箇年」と年数を述べていることから、八月中に小湊に帰省されたのかも知れません。行者として艱難辛苦に耐える日蓮聖人と、母親を想う孝子日蓮聖人の姿を窺うことができます。この姿は四恩の教えを護る純真な心なのです。この母蘇生の噂はたちまちに広がり、日蓮聖人の名声と法華経の霊験に入信する者がありました。領家の大尼・新尼、親類縁者とお会いになったことでしょう。

安房における布教の拠点は西条の花房の蓮華寺であったとされます。西条は景信の勢力圏外であったようです。ここには浄円房がいました。浄円房の詳細は不明です。花房の蓮華寺が清澄寺の末寺であれば、浄円房は道善房と師弟関係ではないかと言います。住房を「青蓮院」と称します。（『高祖年譜攷異』）。小湊に帰省された日蓮聖人は、兄弟子や縁者たちと再会されました。

母妙蓮尊尼の死去

　文永四年八月一五日に母堂の妙蓮尊尼が没します。没年齢は諸説があります。勝浦法花の妙法華山竜蔵寺に伝わる『高祖御継図』は　６６余歳。「妙蓮寺文書」は８３余歳となっています。（大久保雅行著『日蓮誕生論』二七頁、三八頁）。日蓮聖人はこのとき鎌倉から安房に帰省されたと言います。（『星名五郎太郎殿御返事』四二〇頁）。帰省された時期について、悲母の存命中に帰り弟子の日朗・日澄・日向上人と看病し、臨終正念の題目を唱えられた、また臨終を聞いて帰省されたともいいます。

妙蓮寺の寺伝によりますと、岳父の妙日尊儀の墓所に母堂の墓を建て、日蓮聖人が自ら両親の法号により妙日山妙蓮寺とされたとあります。よって、文永四年八月一五日の創建とされます。開山は日家上人です。戸頃重基先生は妙連寺の寺号について、母方の法号を使ったのは、日蓮聖人の出身にからむ謎と言います。（『日蓮教学の思想史的研究』四〇頁）。『大観』には弘安４年１０月１１日の創立、開山は妙法尼とあります。悲母の霊山往詣を願い染筆された「霊山約束手形本尊」が有名です。また、誕生寺の第三世の日静上人が隠居されて、妙蓮寺の両親閣に住まわれたと言います。

日蓮聖人は父母孝養について『兄弟鈔』に、「恩を棄て無為に入るは真実報恩の身なり」（九二八頁）とのべています。つまり、出家の道を歩み仏道を成ずることが、ほんとうの父母の恩に報いることであるとのべています。『四恩抄』に、

「二には父母の恩、六道に生を受るに必父母あり。其中に或は殺盜・悪律儀・謗法の家に生れぬれば、我と其科を犯さざれども其業を成就す。然に今生の父母は我を生て法華経を信ずる身となせり。梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生て、三界四天をゆづられて人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某が父母歟」（二三八頁）

と、父母より授かった命の恩恵により、法華経を信ずる身となり法華経の行者となったことを感謝されています。ここに、父母重恩の教えを知ることができます。

父母を亡くした日蓮聖人の悲しみ、そして、死後の「後生善処」を願ったことが、弘安三年に身延にて書かれた『刑部左衛門尉女房御返事』に窺えます。

「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給べし。教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈給て候。日蓮が母存生してをはせしに、仰せ候し事をもあまりにそむきまいらせて候しかば、今をくれまいらせて候が、あながちにくや（悔）しく覚へて候へば、一代聖教を検（かんが）へて、母の孝養を仕らんと存候間、母の御訪い申させ給人々をば、我身の様に思ひまいらせ候へば、あまりにうれしく思ひまいらせ候間、あらあらかきつけて申候也。定て過去聖霊も忽に六道の垢穢を離て霊山浄土へ御参り候らん」（一八〇八頁）

と述べていることから、日蓮聖人が追善供養をされるときは、自分の父、母親を思い起こし、我が父母に供養する気持ちで行っていたことがわかります。私たちにとっても示唆のある言葉と思います。

以上、皆様といっしょに日蓮聖人の父母に関することをみてまいりました。

※文永元年（九月ころ）に安房小湊に帰り、母を蘇生されたことは、死を覚悟しての帰省であったのです。その理由は母に会うことでした。

母の葬儀をされたとき遺髪を形見として懐中の奥に納め、佐渡・身延と終生離さずにお持ちになります。入寂にあたり共に荼毘にふすように遺命されますが、入寂の後、弟子たち一同により、池上本門寺の祖像の払子に奉安されました。日蓮聖人の母親に対する情感が伝わります。弟子たちの配慮からも日蓮聖人の深い孝養心がうかがえます。