192. 日蓮聖人、父母のお墓を偲ぶ   高橋俊隆
  お盆には父母や祖父母など故人を慕ってお寺にお参りに来られます。お孫さんたちは大人になり姿を見ただけでは誰だか分からなくなってきましたが、家族を連れて納骨堂にお参りに来る光景は嬉しく微笑ましいもので、私の心も和みます。

 日蓮聖人は身延の山にてはるか離れた房総の父母のお墓を偲んでいました。

「父母の墓をも見よかしと、深く思うゆえに、今に生国へはいたらねども、さすがに恋しくて、吹風、立つ雲までも、東の方と申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立てみるなり」

父母が安らかに住んでいるお墓参りをしたいけれど、東方から吹いてくる風は父母の墓に触れてきたと思えば、その風にふれて父母を偲ぶことができ、雲を見ては父母の墓を眺めてきた雲と思い、思わず手を合わせられている、そのような日蓮聖人のお姿が浮かびます。そして、身延から房総へ吹く風があれば、自分の思いを伝えて欲しいとのべています。

 身延の日蓮聖人のところに、千葉の中山の富木常忍さんの母親と、佐渡の阿仏房さんのお骨が納骨されています。子供がはるばる身延へ納骨されたのです。それは親の遺言であったのでしょう。死に至っても日蓮聖人のお側で御使いしたいという気持ちが強く伝わります。

 妙覚寺に納骨されている懐かしい檀家さんたちも、お寺のお祖師さまのお側にいたいと願った方ばかりです。日延法尼がお寺にみんな一所にいようと語っていたことを思い出します。

 外国の人の多くは日本人がお墓を移動することにビックリしています。それは故人が自ら選んで安心している処から移動することは、故人の尊厳に逆らうと思うからです。よしあしは別として自分勝手な都合ではないのか、本当にご供養されるのであろうかと思うこともあります。

 お寺は常に法華経のお経が読誦され、お水やお花をお供えして供養しています。そのようなお寺が故人にとって望まれていることと思います。納骨堂で小さな子供がオモチャで遊んでいる姿を今年のお盆に見ることができ、お経の力で供養が届いてきたと嬉しく思いました。  合掌