194.お籠もりをして               .    高橋俊隆

私が妙覚寺にお籠もりをして秋のお彼岸、御会式、そして、元旦の熱湯祈祷をはじめて経験し、これまでお寺については分からないことばかりだったので驚きの連続でした。お寺の概念が逆転した気持ちでした。

 私の前後にもお籠もりの人が数人いました。余市の井上さん親子もそうでした。一昨年にお葬儀をしました。私が出家する前からですので50数年の想い出があります。檀家さんというより同志というほうがよいのは、一緒に朝のお勤めをし、掃除をし、食事をして、子供さんと遊び、ともにお題目の行をしたことにあると思います。

 妙覚寺は起床して水行をし、それから本堂に入り朝6時にお題目の大太鼓を打ちます。正座が苦手で5分がやっとでした。次第にお経も皆と一緒に読めるようになりました。それまで3ヶ月かかったかも知れません。小入羽日才上人は厳しく、お経を間違えるとやり直しになります。なにせ最初から仮名が就いていない漢字ばかりのお経本でした。

 「如日月光明」。私は、「にょ・ひ・げつ・こう・めい」。と読みました。お経は呉音で読みますので「にょ・にち・がっ・こう・みょう」となります。御遺文と言って日蓮聖人のお手紙を拝読しますが、漢文のところも仮名なしの本で読みますので、漢文の読み方を西高の図書館で勉強しました。小入羽日才上人のおかげで勉強も教えて頂きました。

 私の中で過去を振り返る余裕はまだありませんが、同志と思う人たちの葬儀は悲しいことです。その人たちに納骨堂にて一生懸命、お経をあげてお題目をお唱えして下さいと語りかけています。姿を見せたり話しかけてくることは修行もできると思ったからです。寂しさもありますが信仰を継続して子孫の幸せを祈り、お寺を守って下さる力もありますし、その力を私から積み重ねてあげる悦びもあると、そういう境地に到達できたのも、私を若い頃から支えて下さった人たちのおかげなのです。ご恩に報いたいと思っています。