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下種と言いいますのは、法華経に縁を結ぶことをいいます。 縁を結ぶ、すなわち結縁(けちえん)のことです。 しかし、縁があったことだけでは下種にならないとする説もあります。結縁があって次に下種となるという考えです。 日蓮聖人にあっては、南無妙法蓮華経というお題目を耳からお聞かせする、そのことが大事だと述べています。南無妙法蓮華経や法華経を信じていなくても、南無妙法蓮華経と唱えなくても、聞くだけで縁を結び、それがいずれ芽がでて信仰することになると述べています。 下種の種というのは南無妙法蓮華経であり、下という下されるというのが縁ということになります。 日蓮聖人の御遺文に、能書家の親子があり、その父は法華経の写経を拒み、それを子供にも遺言して、喩えいかなることがあっても法華経の一字も書いてはいけないといって亡くなりました。子供は遺言を護ろうとしますが君主に書くように命じられ、その遺言を破ってしまいます。子供は書きながら父への不孝を悔やみます、しかし、その夜、亡き父が枕元にて法華経を書いたことに感謝するのです。自分の考えの間違いと法華経の有難さを子供に伝えます。法華経、南無妙法蓮華経と粗末にしたが、その粗末に言った舌が死して子に法華経の有難さを伝える徳をもっていたのです。 法華経を粗末に悪口を言った父。 しかし、悪口とはいえ、そこに法華経との縁を結んでいたのです。 これを逆縁(ぎゃくえん)と言います。 そして、法華経が下種されていたのです。 日蓮聖人の生涯は、このように法華経との縁を結ぶことが根本なのでした。 下種を花の種にたとえますと、次に芽を出し、そして大きなきれいな花を咲かせます。釈尊の教えは今に始まったのではなく、私たちが生まれるずっと以前から縁があったことを法華経は説いています。 想像しがたいことですが法華経の第七のお経に三千塵点劫という大昔に、釈尊は舎利弗や目連と縁を結んだことを説いています。 そして、花を咲かせるために太陽の光、水、栄養にあたる指導を生まれ変わりながらされます。これを「熟」(じゅく)といいます。そして、大輪を咲かせる、それを「脱」といいます。種・熟・脱の三つを教えられました。 これを、三種教相の二番目、化導の始終(しじゅう)と言います。 末法は信仰をする人は激減する時代。また、人間も自己欲に負けてしまう時代。 そのときの法華経の広め方は南無妙法蓮華経と聞かせていくことが第一歩になります。日蓮聖人はそれをはじめられた最初の方なのです。 私達の心身に、しっかり法華経の信心を植えましょう。 |
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