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3月の7日を過ぎて、やっと春に近づいたかとほっとしています。 この二日くらいの暖かさが体の緊張をほぐしてくれたようです。 今年は背中が寒くてと話すと、それが歳をとったことですよと高子さんが微笑む。 寒さを感じたのは今年に入って1月の中過ぎころから。 元旦の熱湯祈祷までは水がぬるくて、外に水をおいて水行をするほどでした。 それが急に水が冷たくなり、荒行堂で毎日六回、水をかぶったくらい背中が冷たい。 夜12時に布団に入り、朝2時半に起きても体が温まっていない荒行堂を思う。 背中の冷えが消えないと自分ばかりのことを考えていました。 突然、日蓮聖人のお手紙の文章を思い起こしました。 「寒はせめ候。身のひゆること石のごとし。胸のつめたきこと氷のごとし」 身延山は大雪が降り、当時は寒いところでした。 夏頃に雪が消えたかと思うと、すぐ初雪が降るようでした。 身延山もそうですが、やはり佐渡の冬を忘れてはなりませんね。 日蓮聖人が佐渡に渡ったのは50歳。しかも11月です。 塚原という荒野、一間四面の扉もない地蔵堂にて冬を越されたのです。 晩年、下痢に悩まされたのは、寒さによるものでしょう。 そういうことを思うとストーブに抱きついている自分が情けない。 身延山の近くに下部温泉があります。 武田氏の所領地であったため、湯治には行っていないようです。 療養のため常陸の温泉に向かう途中の池上にてお亡くなりになります。 常陸は波木井氏の子息の領有地であったとのことです。 湯治が目的ではなく、小湊の故郷、親のお墓参りが本心かと思います。 身延山のお堂にお風呂はなかったのですか? と、中尾先生にお聞きしたところ、そういう施設はなかったとのこと。 現在のお風呂と言っているのは江戸時代に始まるそうなのです。 日蓮聖人のお手紙に、お弟子さん達は頭の髪の毛も伸び。 髭ものびて、吐く息が髭に凍ってツララになっている。 まるで瓔珞のようだと書いています。 冬の厳しさが伝わってきますね。 そんな折にお酒が奉納されています。 御遺文には5回、6筒の記載があります。弘安3年から4年。亡くなる2年前ほど。 さきのご遺文は次のように続きます。 「しかるにこの酒は、あたたかにさしわかして、かつこう(芹の一種で漢方薬)を はたと食い切て、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、湯に入るににたり、 汗に垢あらい、しずくに足をすすぐ。このお志ざしはいかんがせんと、うれしくお もい候・・・」 日蓮聖人はお酒のことを、聖人(すみざけ)と言っています。 体を温め、活力を呼び起こす。百薬の長というお酒でした。 暖かな日差しのあるときは、日蓮聖人のお背中をさすってあげたのでしょう。 |
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