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運動不足で腰を痛めすっかり歩けなくなり、太りすぎで暑い暑いと言っているうちに、もう9月になりました。 頭のなかではあれをしたいこれをしたいと考えていますが、行動できないのは当に凡夫なのでしょう。 日蓮聖人は、 心には読めども 口には読まず 口には読めども 身に読まず 身・口・意(しんくい)に読むことこそ尊く候 と、弟子の日朗上人にお手紙を書かれています。 鎌倉の竜の口という処刑場で首を切られようとされましたが、不思議な現証があり、佐渡に流罪と変更になりました。 しかし、お弟子さんの数人は捕らえられて牢に入れられます。妙本寺さんに現在も土牢が残っていますように、日朗上人達はここに監禁されてしまいました。 日蓮聖人はこの牢にいる日朗上人に宛てられたのが、身口意の三つともに読まれたことの尊さを述べられたお手紙でした。 日蓮聖人が佐渡に流罪されたお歳は50歳。10月11月そして4月までの真冬を塚原という、いわば墓地の一間四面の地蔵堂で過ごされました。 しかし、この塚原で『開目抄』という論文が書かれいます。 日蓮聖人は自分の遺言と言われています。 内容は法華経の信仰がテーマになっています。 長い文章で、御遺文のページでいいますと、747から825ページになります。 そこには法華経の教えをもとにしなければ、人間はまとまらないということ。法華経の経力でなければ心身を救うことはできないこと。法華経の信仰を持たなければ国を治めることはできないということが述べられています。 そして、何よりも行者としての日蓮聖人のお考えがせつせつと述べられています。上行菩薩のご自覚もこの『開目抄』ではっきりと述べられてきます。 最近、とくに老眼になりめがねを取ったりつけたりするようになりました。ふと、日蓮聖人はどうだったのだろうかと思うことがあります。自分がその立場にならないと分からないことがたくさんあります。 老人ももとは若者ですし、若者も50年もたてば老人になります。 ことわざにも、年寄りを粗末にするな、いずれ自分が行く道だから。また、若者の至らないことがあっても自分の歩んできた道ではないかといいます。 私達はまず日蓮聖人のお言葉を人生の師として学ばなければならないと思います。 お彼岸の意義は、自分なりに精進し努力することかと思います。法華経の信心は欲を捨てて慈悲を持つこととするなら、そのさきに理想の彼岸という人間の社会が実現するのでしょう。 まずは、私は歩くことからもう一度始め、体を鍛えたいと思っています。 信仰もそのように積み重ねていきたいと思います。 これが、口だけにおわらないように。 |
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