56.釈尊と菩薩行

 若いころ、と言っても二十歳ころの三余年は、小さくても純金の仏になろうと思っていた。正しくは自分の中にある大黒さまのような像を純金につくりあげようとしていた。
 その理由は、お経を覚えるのが遅くても、また、高校入学が三年遅れており、定時制なのでもう一年遅れるので、大学を卒業するのが遅くなる。しかし、あせらず、ただ一人前の僧侶になることであった。一人前の僧侶とはどのようなものか師匠を目標としたかったが大きすぎた。自分としての到達点は十年ほどたつとそれがわかってくるのではないかと漠然と考えるしかなかった。全ては自分の努力だとはわかっても自信は簡単に持てるものではない。不安があったのか書道の先生をしてと思って二十二才まで習字をして子供を教えれる師範になったが、逆に自信をなくしてしまう。限界に気づいたからだ。しかし、この頃から宗学をした蓄積が自信となって、立正大学の宗学の先生をしたいという希望をもった。

 メッキははがれてしまう。だから小さくても純金にしなければと思っていたのだ。
 その頃のことを思うと、努力することが菩薩行と言えるのではないかと思った。純真に努力する行いがそう連想させる。

 釈尊は過去世から菩薩行をされてこられた。すでに仏であるのに菩薩行をされてこられた。仏であっても衆生を救う時は菩薩行となるのであろう。仏のなかにある菩薩と考える。仏の心のなかにも地獄や餓鬼がある。私達と違うのは貪欲ではなくて、慈悲の欲をもった地獄や餓鬼、畜生の心なのであろう。釈尊ご自身の十界互具はお優しいお心に違いない。
 法華経に説かれている釈尊は、最初から仏であったと書かれている。本来から仏であった、ということから「本仏」(ほんぶつ)と言う。この本仏が過去からシャリホツやモクレンという大勢の人々を救ってこられた。時代をかへ、名前をかえ、他の仏様のことを説いたり示したりしてこられたと説いている。これを六或示現(ろくわくじげん)という。

 日蓮聖人は法華経を体で読みなさいと言われる。体は仏教では色(しき)と表現されるので色読(しきどく)と言う。この色という身体と、もう一つ大事なのは心である。私達は身体と心からなりたっているとして色心(しきしん)の二つを大事に考える。
 心は精神で、色は肉体の感受性と行動をあらわしている。心も色も一体であるのに、心で思っても実際にはできないことが多い。肉体があるゆえの欠点であると考えたのがアラカンなのであろう。この肉体を離れたいと思った悟りが「灰身滅智」(けしんめっち)である。
 しかし、日蓮聖人はこの欲にまみれた肉体を法華経に捧げることこそ大事であると述べられた。そういう自覚が必要ということであろう。四条金吾さんには、奥さんと二人仲良くお酒をかわすことことも大事であると述べられているからだ。

 法華経の信心は、「人の振る舞いにて候う」。私達の毎日の行いが大事と言うことだ。毎日少しずつでも、日蓮聖人の教えに近づくことが菩薩行であろう。釈尊が地湧(じゆ)の菩薩である日蓮聖人に、末法に法華経を広めることを委託された。法華経色読の行者と自ら宣言された日蓮聖人のお言葉に近づかなくてはと思う。
 慈悲の心を大事にすることが菩薩行と考える。しかし、慈悲とはただ、人に優しくするばかりではない。目の前の悪に立ち向かうことも必要なのである。