57.清澄寺と日蓮聖人

 清澄寺(きよすみでら)は古いお寺で、771年に開創され、830年代に比叡山の慈覚大師が基礎をつくられました。
 日蓮聖人が入られた鎌倉時代、1230年代は立派な力のあるお寺となっていました。
 清澄寺は日蓮聖人がお生まれになった千葉県天津小湊と同じ地域にあります。徒歩では1時間くらいでしょうか。
 12歳のときに父親と清澄寺に登り、道善房のお弟子になりました。幼名を善日麿と伝えています。母親の太陽への信仰と結びついた名前のようですが、善日というように呼ばれていたのでしょう。この年は小僧さんとして入られ、薬王丸という名前も伝えられています。正規に出家されたのは16歳で、是聖房蓮長と僧名をいただきました。
 清澄寺に入られたのは日蓮聖人ご自身の願いであったと思います。日蓮聖人は非常に成仏ということにこだわりを持っています。真剣に成仏とはどういうことなのかを考えておられるのです。
 一つには、親の職業が漁師であったこと。生き物を殺生することへの罪の意識が強かったことです。きっと網でさらわれてくる魚たちを見て、日蓮聖人はかわいそうにと思ったのでしょう。また、仏教の殺生戒を犯すということに、敏感な子供であったのです。この罪の償いをどのようにしたらできるのか。そして、両親をいかようにしたら成仏をとげさせることができるのだろうか、という思いを持っての清澄入山でありました。
 このことは、日蓮聖人が晩年になっても、常に述べておられます。ご自身の法華経の功徳を、まずは父母に回向いたします、次に弟子や檀家にというお手紙が残っています。
 次に、お坊さんの死に方についての疑問がありました。
 日蓮聖人は根っからの仏教信者だったのでしょう、有難い念仏を唱え、皆に阿弥陀さんの浄土へ往生できると教えていた坊さんが変死することへの不信があったのです。
 普通の子供は、そこまで考えないものですが、日蓮聖人は坊さんの死に様が気になられるのです。熱に魘されて狂い死ぬ。体が赤く火傷のように爛れ、黒くこげたかのようになって悶死することを聞かれたのだと思います。両親の話や近所の会話に聞かれたのでしょう。
 この坊さんの往生のしかたが、日蓮聖人にとっては成仏か不成仏、極楽か地獄かの目視できる判断材料だったのです。日蓮聖人は仏教は必ず成仏できる教えであることを疑ってはいなかったのです。それを解明することも清澄に来る理由だったのです。
 三番目には、仏教の祈祷の力に疑いを持ちました。
 1221年、日蓮聖人がお生まれになる1年前の「承久の乱」は、若き日蓮聖人にとって仏教の勝ち負けを判断する基になったのです。
 承久の乱で三上皇が負けて島流しにあいます。順徳天皇は佐渡に流され、同行したのが阿仏房です。
 三上皇は真言宗の加持祈祷を持って、敵を調伏して勝とうとしたが、結果は負けてしまった。日蓮聖人にとって仏教は力のあるものでした。仏教の力は災害を防ぐほどのものでありながら、なぜ、徳の高いと言われる天皇がかくも惨めにされ、しかも政権も奪われてしまったのか。
 真言の教えは邪法なのか。仏教はどうなっているのか。
 日蓮聖人は、かかる疑問を持ちながらも、真実は仏教のなかに必ずあるという純真な信心を持っておられたのです。
 日蓮聖人の清澄入山への道のりは、やがて法華経の行者となる大事な一歩でした。