59.日蓮聖人の出家の年齢などについて

 日蓮聖人については、鎌倉時代の人のなかでも郡を抜いて資料があります。
 それは、日蓮聖人が書かれた論文や、とくに手紙がたくさん保存されてきたからです。千葉県の中山にある大本山法華経寺には、国宝の『立正安国論』や『観心本尊抄』などが保存されています。中山に住んでいた富木さんは、外護者の中心人物で、日蓮聖人が亡くなってすぐにお手紙などを集めて、それを保存されました。
 それは、日蓮聖人の教えをできるだけ正確に残すためでした。その折に、富木氏は目録をつくり、第一級のご真筆としての価値を認めました。そのご、三回忌、七回忌に新たにご真筆として加わりました。富木氏は日蓮聖人の字体を熟知していますので、このころに集められ、法華経寺に寝ずの番をして七百年ものあいだ、保存されてきたお手紙(御書)はぜんぶ本物ということになります。
 今日も断片が発見され、先師の古文書が発見されて、日蓮聖人についてのことが、より鮮明になってきています。

 日蓮聖人は両親の家柄については、ほとんど述べていません。日蓮聖人が書かれた御書がすべて残っていたとしても書かれていないと思われます。それは、書く必要がなかったからでしょう。また、出家の年齢についても、はっきりしていません。ただ、「十二、十六の年より」とのべていることから十六歳に出家したと考えられています。では、以前はどうだったかといいますと、江戸時代はほとんどが十八歳の出家と記述されています。
 日蓮聖人が十七歳のときに書写された『授決円多羅義集』が金沢文庫にあり、それには、嘉禎四年十一月十四日に清澄山の道善房の東面にて書かれたと後書きがあります。そして、重要なのは、「是聖房生年十七歳」と書かれていることです。
 ここに、はっきりと十七歳には、出家されていたことがわかります。そして、もうひとつ、房名の聖(しょう)の字が書かれていることです。なぜなら、先師の祖伝には、聖を生・性・正などど伝えていて、その当時は、耳に聞いたゼショウボウを漢字にあらわしたということなのでしょう。

 今日では、門流のなかで秘伝としたり、門外不出とされていた御書が、写真などで拝見できるようになりました。先師は、日蓮聖人のご真筆を手にとって拝見するということは困難なことで、限られたことでした。
 御書についても、書写されたものを更に書写して伝えられてきました。数百年を経ますと、誤記や加筆があって原本と違うものになったものもあります。
 しかし、先師のたゆまぬ精進があってこそ、堅実に日蓮宗は発展してきました。
 日蓮聖人の『立正安国論』を提出されるまでの間に、不明な所在、年次がありますが、それらも今後は正確に解明されていくと思います。