62.お題目は骨髄、読経は血肉

 中山の法華経寺で荒行が始まっています。
 私も2回、修行に入りました。
 修行は場所を選ばないので、どこでもが修行の場といえます。
 ただ、初心のときは世間から離れた所の方が修行ができます。
 この場合の修行とは、「心を乱されない」からできるということです。
 比叡山や身延山、清澄寺や諸宗の名刹は、奥深い山頂近くに在るのはそのためだといえます。
 荒行堂は、テレビ・新聞など社会から切り離され、また、お寺のことや家族のことからも切り離されますので、ある意味では修行に専念できるわけです。
 だからと言って、荒行に入ったから必ずしも力が着くとはいえません。
 美術の大学に入ったらといって、全員が著名な画家や工芸家にならないのと同じです。
 御前さまはたくさんのお弟子さんがいました。お弟子の皆が日延法尼のような力を持ってはいません。日延法尼一人ではないかと思うくらいです。
 日延法尼は荒行堂には入っていません。
 では、なぜ力が着いたのでしょうか。
 弁天堂の滝に打たれ、断食をして、函館の家にても水行をしたからでしょうか。
 これは、その通りなのですが、では、一番肝心なことは何でしょうか。

 日延法尼は、教えて下さいました。
 「こころ」がなければ何をしても通じない。

 私が最近思うことは、お題目を唱えることは一番大事なこと。
 でも、お経を上げることも大事なこと、ということです。
 気持ちを集中するときにはお題目です。
 南無妙法蓮華経と唱えることは、法華経の全てを読んだことと同じといいます。
 たとえば、日本という二文字に全国が網羅するのと同じです。
 読経は、その町々をつなぐ幹線であり町並みかと思います。
 私達の体で言えば、お題目は骨や骨髄、読経は血肉ではないかと思います。
 お題目は正行(しょうぎょう)、読経は助行(じょぎょう)といいます。
 私は、お題目は行力を養い、読経は読んで字のごとく経力をつけるものだと思います。

 困ったときの神頼みにならないように、日常の信仰を忘れないようにしましょう。