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中山の法華経寺で荒行が始まっています。 私も2回、修行に入りました。 修行は場所を選ばないので、どこでもが修行の場といえます。 ただ、初心のときは世間から離れた所の方が修行ができます。 この場合の修行とは、「心を乱されない」からできるということです。 比叡山や身延山、清澄寺や諸宗の名刹は、奥深い山頂近くに在るのはそのためだといえます。 荒行堂は、テレビ・新聞など社会から切り離され、また、お寺のことや家族のことからも切り離されますので、ある意味では修行に専念できるわけです。 だからと言って、荒行に入ったから必ずしも力が着くとはいえません。 美術の大学に入ったらといって、全員が著名な画家や工芸家にならないのと同じです。 御前さまはたくさんのお弟子さんがいました。お弟子の皆が日延法尼のような力を持ってはいません。日延法尼一人ではないかと思うくらいです。 日延法尼は荒行堂には入っていません。 では、なぜ力が着いたのでしょうか。 弁天堂の滝に打たれ、断食をして、函館の家にても水行をしたからでしょうか。 これは、その通りなのですが、では、一番肝心なことは何でしょうか。 日延法尼は、教えて下さいました。 「こころ」がなければ何をしても通じない。 私が最近思うことは、お題目を唱えることは一番大事なこと。 でも、お経を上げることも大事なこと、ということです。 気持ちを集中するときにはお題目です。 南無妙法蓮華経と唱えることは、法華経の全てを読んだことと同じといいます。 たとえば、日本という二文字に全国が網羅するのと同じです。 読経は、その町々をつなぐ幹線であり町並みかと思います。 私達の体で言えば、お題目は骨や骨髄、読経は血肉ではないかと思います。 お題目は正行(しょうぎょう)、読経は助行(じょぎょう)といいます。 私は、お題目は行力を養い、読経は読んで字のごとく経力をつけるものだと思います。 困ったときの神頼みにならないように、日常の信仰を忘れないようにしましょう。 |
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