65.身延の日蓮聖人

 佐渡に流罪されたら生きて帰って来る者はいない、といわれた佐渡から赦免されて鎌倉にいちど帰ってこられました。
 北条時宗に三度目の法華経を信仰するように諌暁されました。しかし、宗教界には極楽寺の忍性が幕府とつながっており、また、幕府のなかにも平頼綱と安達泰盛の対立があり、それらの権力のなかに、日蓮聖人の主張は邪魔であったわけです。
 3月に赦免、4月に平頼綱と対面、そして5月には身延山に向けて弟子7名を伴って出立しました。
 途中、静岡の南条時光の近くを通りますが、あえて、危害が時光におよぶのを心配して立ち寄らずに身延に向かいました。
 静岡は日興上人の地元で、身延の波木井さんも日興上人の縁で信仰に入っていました。

 身延山に9年おられましたが、安閑としていたのではなく、時代は蒙古の襲来という時で、日蓮聖人が『立正安国論』で予言した他国から侵略されることが的中したということで騒然としていました。日蓮聖人を信じる者がたくさんできましたが、反面、これを良しと思わぬ平頼綱や忍性は、鎌倉の日蓮聖人の弟子や信徒を迫害したりしました。
 それは、静岡の熱原の名主たちにもおよび、3人が殺害され17人が捕縛されるという事件がありました。この近辺は北条氏の領地でありましたので、こういう迫害が容易になされたのです。

 身延での生活は厳しかったようです。寒さが一番、体にこたえたようです。3度、やせやまいという病気になっています。このようなときでも、身延山にいる弟子が40人から60人ほどいたといいます。これらの弟子は千葉や鎌倉、静岡、佐渡などを往復して、各地の弟子や信徒の連絡をとっていました。
 四条金吾と主君の江馬氏との問題や、池上親兄弟の問題、下山氏の問題、これらは信仰を主君などから止めさせようとされたものでした。日蓮聖人は、それらの一つ一つに指示をされ書状をかわりに書かれています。
 身延山は常に各地の門下と連絡を取り合っていたのです。