66.日蓮聖人と法華経          高橋俊隆

 勉強会を毎月18日に行なっています。そのテキストとして『日蓮聖人と法華経』と題して書き始めてから約一年になろうとしています。原稿用紙で450枚ほどになり、秋ころから少しずつファイルにして資料にしていければと思っています。
 日蓮聖人の生誕から一年ずつ順に話を進めていきますが、いがいと不明な時期があります。まず生誕の場所が小湊なのか、両親が武家の出であったのかから始まり、清澄寺の規模が大きかったこと、領家の尼の領地で地頭の東条景信と争っていたことや道善の御房の本名がわからないこと。また、鎌倉に4年ほど遊学しましたが、どこに住まわれて誰に何を学んだのか。比叡山に12年いましたが、その間、奈良や高野山など地方の学匠を尋ね歩いていますが具体的にどこかは不明です。
 立教開宗をして、いつ鎌倉に入られて、どこに草庵を造ったのか。岩本の実相寺に入って一切経を閲覧したのが事実なのか、それはどのくらいの期間だったのか。松葉が谷の焼き討ちがあったのかどうか。その後、伊豆流罪・小松原法難と続きますが、その間の足取りがわからないところがあります。竜口・佐渡流罪以後ははっきりわかっていますが、このような中で弟子や信徒に法華経を教えていかれた経緯などを知ることは大事なことです。

 とくに、「鎌倉幕府からみた日蓮聖人」という視点から追求すると、より日蓮聖人という人がわかってきます。また、表に立つ日蓮聖人と磐石に控えていく日昭上人などの天台宗に籍を置いている人がいました。文永八年の法難で260名の鎌倉の信徒が迫害を受けて主人から解雇されたり、所領を取られ追い払われたり、また税金を課せられたりしましたが、なかには北条家に近い人には迫害がなかったということもあります。
 源頼朝いらい北条氏に移っても殺戮の権力争いでした。北条時頼が得宗家の支配下に政治を行なっていきますが、時頼の死後は平頼綱が日蓮聖人を敵として迫害を加えてきました。時宗は蒙古襲来に懸命でした。極楽寺の良観たちも仏教者として日蓮聖人に対峙するのではなく、これらの権力者と結んで邪魔な日蓮聖人を殺害しようと画策したものでした。それは、日蓮聖人が身延に入ってからも続いていきます。三度目の流罪も目論み、宗論の偽うわさ、熱原の法難、池上氏・四條金吾などの親子・主従問題にもからんでいます。
 この勉強会ではこれらのことを一緒に調べ話し合いながら進めていこうと思っています。どうじに年代順に御遺文を拝読することにより、お手紙が書かれたいきさつや教学の展開の方法などに思慮があったことをうかがえます。 日蓮聖人の立正安国ということを深く考えなおす時がきていると感じます。