67.師の教えを受け継ぐ

 私は師匠の尼さんから一つだけ誉められたことがあります。それは信仰心があるということです。このごろ、年齢も50代の中になり、尼さんの言葉をじっくり考え、やっと理解ができてきたことがあります。私は妙覚寺のため、お祖師さまのため、師匠のためにと思って住職になり19年間、経ちました。
 とにかく、妙覚寺にキズをつけてはいけない、お祖師さまに恥じることをしてはいけない、と思ってきています。
 そして、師匠の教えを守らなければいけないということです。私の僧侶としての全ては師匠に指導されてきたことですし、世間のことや様々なこともお寺にいて師匠の話を聞いて覚えてきたことばかりです。最初からなんでも知っている人はいないように、私は師匠から教えていただきました。また、檀家さんからしましても師匠の意志を引き継ぎ、師匠の教えを受け継いでいるところに、私の価値を見出そうとするものだと思います。

 師匠はどんなに疲れていても檀家さんには疲れた顔を見せませんでした。東京でふくらはぎを3箇所、肉離れして団子のようになった足で正座をし、4時間もお伺いされていたことは驚くことでした。病院に行きすぐにギブスをし松葉杖の生活になりました。
 五十肩になり腕が上らないのを、無理に身体祈祷のご祈祷をされていたことは法華経の行者の姿だと思いました。師匠は常に法華経の行者ということを申していました。私が立正大学に残りたいと言ったときに、学者坊さんになるのか、法華経の行者になるのか考えなさいと言われました。私にとって法華経の行者というのは、恐れ多いことでしたが
1年間、考えて荒行に入ったのです。
 師匠の上品なことは誇りでもありました。いつも身支度をきれいにし、髪を染めいつもきちんと整えていました。見る人にとっての印象は大事ですし、その人の人格がそこにでてきます。どんなに有難いことを言っても汚くしていては見透かされてしまうことです。毎日、自分に言い聞かせて精進をするようにとのことなのです。性格というのは自分で変えられるといい、師匠は性格を変えたと言っていました。
 いつも、檀家のことを思い行をされていました。今日の檀家さんは、そういう師匠を忘れられないから信仰に励み、妙覚寺を護っておられると、私は考えるようになりました。できることは、心を込めて檀家のためにお経をあげること、初心を忘れないようにと思っています。