71.願満鬼子母神教会

 妙覚寺の出発は「願満鬼子母神教会」から始まりました。
 千葉県の大本山中山法華経寺から徒歩で10分くらいの若宮町に奥之院があります。日蓮聖人がおられた当時は富木常忍という有力な檀家が住まわれていました。富木さんは早い時期からの信者であり、日蓮聖人と親戚と言われるほど日蓮聖人に尽くされた方です。後に日蓮聖人が立教開宗し鎌倉に入った頃に、富木さんは出家して日常と名乗ります。日蓮聖人が亡くなってからは信者をまとめ、特に日蓮聖人の手紙や書き残された書状を集め整理されました。そのなかに国宝の『立正安国論』や『観心本尊抄』があります。この富木邸の奥之院を昭和になって再興されたのが東日教上人です。それまでは女性の方が寺を守っていたそうです。尼さんが弟子として入った頃はで雨が漏る建物だったそうです。『妙覚寺20年の歩み』のなかに当時の写真が載っています。
 尼さんと同じく弟子になった中川善恵法尼が函館におられます。中川さんのところは「日限鬼子母神教会」といいます。実は尼さんと中川さんが同じく教会を開くことになり、その名前をつけるとき尼さんが「日限(ひぎり)鬼子母神」であったそうですが、御前さまが書類を出された時に名前が入れ替わってしまったそうです。
 当時、尼さんは祈願の成就をするときに、いついつまでに病気を治すとか、祈願を叶えるということで信者さんと行をされていました。たとえば35日以内とか、100日以内というように日にちを決めて祈願をしていましたので、そこから日を限るということで日限(ひぎり)の行者として名を高めていました。
 中川さんは「あんたさんの所に私の名前が行ってしまい、私のところが日限りでは」と、お互い驚いたそうです。中川さんの感応は何日という数字が出るとのことでした。だからこれでいいでしょうということで、仲の良い二人の笑い話となって、その名前を名乗ってきました。
 法華経寺と奥之院は昭和21年に中山妙宗という宗派になりましたが、昭和48年に日蓮宗に合同し復帰法要を行ないました。妙覚寺が開創した昭和26年、札幌に移った昭和30年は中山妙宗のときでした。開堂法要の写真を見ますと中山妙宗の看板が写真に写っています。
 私が中山の法華経寺にいた時が妙宗の最後の時でした。合同復帰でいったん札幌に帰り、妙覚寺を日蓮宗に改宗する手続きを手伝い、翌年、立正大学の二部に入学しました。妙覚寺も私も日蓮宗の僧侶としてここから始まりました。