72.曼荼羅の完成

 毎月18日に勉強会をするようにしています。今月とお盆の月はお休みしています。この勉強会のテキストを書き始めています。日蓮聖人がお生まれになったときからの一歩一歩をいっしょに歩む勉強会にしていきたいと思っています。これまでに、日蓮聖人のお手紙のコピーを拝読したことがあります。書道を習わなければ読めない文字ばかりでした。行書や草書、当時の略字などがあり古文書を読むのと同じです。解説の文も書かれている旧字体を表記しているので、それ自体が読めないものがありました。でも、日蓮聖人から、その手紙を受け取った人は読んでいたのでしょうから、昔の人はすごい識字力があったのだと感心します。「以呂波仁保辺止」これは「いろはにほへと」です。江戸時代の人はこういう字を読んでいました。現在の私達のほうが読めなくなってしまったのです。
 日蓮聖人の曼荼羅も数点拝観しました。佐渡に流罪される前に書かれた「楊枝本尊」のコピーを拝見し、これが初期の曼荼羅で、南無妙法蓮華経と釈迦牟尼仏と多寶仏しか書かれていない簡素なものでした。宛先は不明となっています。半紙より大きな紙を2枚継いである紙に急いで書いたことがわかります。佐渡に向かう緊張感と、この曼荼羅を書き与える意味を偲ぶことができます。この曼荼羅と同じ頃に日朗上人に手紙を書かれています。
 日朗上人も日蓮聖人が鎌倉の草庵で捕縛されたときに捕まり、洞窟を利用した土牢に閉じ込められていました。日朗上人を加えて5人あるいは6人が幽閉されていました。この日朗上人にいよいよ佐渡に立つことになったことを知らせ、来年には赦免になるから佐渡に尋ねてくるようにと励まされています。私はこの『五人土籠御書』に楊枝本尊をつけて日朗上人に与えたのではないかと思っています。
 佐渡に入って2年目の7月8日に曼荼羅本尊を書き表わしています。これを「始顕本尊」といいます。現在のご本尊という曼荼羅の原型はこのときに始めて書き顕されました。日蓮聖人は赦免されて佐渡から鎌倉に移るときに、この始顕本尊も持って帰ります。このときに千日尼に別に曼荼羅を書かれて佐渡に残されていきました。
 その後、身延山に入られ、この身延山にてたくさんの曼荼羅を書き残されていきます。曼荼羅に書かれている内容にも少しずつ変化がでてきます。幕府は蒙古の襲来に心血をそそいでおり、二度の元寇は大風により被害を受けずにすみました。これにたいして日蓮聖人の預言ははずれたという風潮がおき、千葉の富木さんから、どのように対処したらいいかという手紙が届けられています。日蓮聖人は台風はたまたま起きたものであり、蒙古の大将の首をとったわけではないからと言いますが、それ以後、蒙古については口外しないようにと厳命しました。
 鎌倉・中山・房総・伊豆・富士・佐渡などで、日蓮聖人の弟子や孫弟子、信者が法華経を広めていました。幕府からの迫害はまだまだ強く、所領を奪われたり、死人も出ていました。身延山にいても安閑としてはいられない状況でした。曼荼羅はこのような中で書き与えていたのです。