74.清澄寺に入った理由について

 日蓮聖人は12歳のときに清澄寺に入りました。
 御遺文によりますと、自分の意思でお寺に入り、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に祈願をかけています。
 その祈願は「日本第一の智者にさせてください」ということでした。
 さて、日蓮聖人は千葉の小湊の漁師の家に生まれたと述べているように、魚貝や海草などを採取して生活をした家に生まれました。その両親をみますと学識のある武士であったと推察されています。当時は武士の時代で、戦さによる権力争いが続いていました。日蓮聖人の父親は平家方に付いていたため、小湊に流罪されたといわれます。小湊一帯を管理していた領主に世話になり、漁師となったようです。しかし、もともとは武士であり文筆官僚であったといわれています。
 日蓮聖人が清澄寺に入ったときの教養・知識をみますと、両親から相当の教育を受けていたと考えられます。日蓮聖人の知識の広さは、幼少のときに培われていなければ、それほどの興味や追求心はなかったと思われます。その知識は中国・日本の故事や歴史、生活様式・食・娯楽など幅の広いものです。日本で最古の囲碁の譜が残っているのは日蓮聖人と日朗上人と伝えられていることからもうかがえます。
 この両親のもとで育てられ教育された日蓮聖人は、いったい何を最大の問題としたのでしょうか。12歳といいますと小学6年でしょうか。当時としますと、ある程度の責任を持つ年齢と思われます。日蓮聖人は迷わずに清澄寺に入られました。このことは、後年に手紙で述べているように近隣の人たちは周知のことであったようです。つまり、日蓮聖人は自立できるある程度の年齢になれば清澄寺に入り、学問するということを近隣の人たちは知っていたということです。しかも、本尊の虚空蔵菩薩に誓願をかけるであろうことも周知であったというのです。
 その理由はさまざまありますが、その根本になっているのは何かといいますと、それは「成仏」ということです。いかにしたら先祖や父母が成仏できるであろうかということです。

 そして、日蓮聖人を知るには、この「成仏」を真剣に考え、かたくなに「戒律」について学問をされた日蓮聖人の若き青春時代を見逃すわけにはいかないのです。