77.日蓮聖人の幼少のころ

 幼少期の日蓮聖人は父母の慈愛を充分に受けていたと思われます。身延山の頂上に登り父母を偲んだ故事から思親閣が建てられました。身延山に故郷の小湊から送られた海苔に父母を偲ぶ手紙がそれを示しています。読み書きと正義感にあふれた日蓮聖人は12歳のとき、四条帝の天福元年(1233)5月12日、父親が同伴して小湊から約8キロの道を歩いて清澄寺に入りました。釈尊は12歳までに、文武を兼ね備える教育をうけていたことが仏典に説かれていますので、日蓮聖人においても、清澄寺での修学力の速さは、幼少時に教育を受けていなければかなわないことです。相当の身分であった父母が何らかの事情で流罪されていたならば、武士の時代における無常を感じ取っていたでしょう。つぎの御遺文は幼少時の教育を彷彿させると思われます。

「漢土にいまだ仏法のわたり候はざりし時は、三皇・五帝・三王、乃至太公望・周公旦・老子・孔子つくらせ給て候し文を、或は経となづけ、或は典等となづく。此文を披て人に礼儀をおしへ、父母をしらしめ、王臣を定て、世をおさめしかば、人もしたがひ、天も納受をたれ給ふ」『乙御前後消息』(1095頁)

と外典などの書物を挙げていることは、これらの書物を読んだとことを想起します。父母から直接これらの故事や礼儀を聞いて覚え、向学的な知識欲は広範にわたったといえます。また、書物を読む機会に恵まれていたと思われるのです。
 また、後年のことになりますが、両親が世話になった領家の訴訟問題に大きな力となっていたことから、父親がこのような職業をかねていたのではないかと言われています。
 鎌倉や比叡山に修学するには、相当な学力が必要でしたし、旅費や交通費そして書物などを購入する費用がそれなりに必要でした。これらを十分に賄えるだけの外護者がいたといえましょう。