78.信行道場の思い出

 昭和53年の夏に身延山の信行道場に35日間入り、それから30年になります。
 日蓮宗の僧侶になるには必ず入らなければなりません。ふつうは大学生のときに入りますが、私は大学院に入ってから身延山に行きました。私が入った年は70年ぶりの暑さで、道場生の90人はスルメのように薄くなって、ヒラヒラと西谷から祖師堂やご廟所にゲタの足をそろえて歩いていました。
 昭和48年に中山妙宗から日蓮宗に合同となりましたので、作法などは始めてのことが多く、戸惑ったりしましたが、それだけ勉強になりました。
 きつかったのは正座です。板の間でしたので、けっこう足がしびれて、立ち上がってそのままへたり込んだことがありました。水行のときに肝文を唱えて水をかぶるのが新鮮でした。また、大太鼓も団扇太鼓も今までとは違ったうち方でしたし、お経もところどころ違ったりしたのが、みな新鮮に感じ吸収できたと思います。お寺で声明(しょうみょう)といって、お経を上げる前の道場偈や、最後に唱える奉送(ぶそう)なども、この信行道場で習ったのを、お寺に帰ってきて皆さんにお教えしました。いぜんのとは、このときに変えたのです。
 道場生は猛暑にマイッテしまい、脚気や目に衰えを出す者が出て、アンパンをお医者さんから差し入れしてもらったりしました。お番茶のなかに少量の砂糖を入れたのが、特別に甘くて、お寺にきてから、その味が忘れられずに砂糖を入れて飲むのですが、ぜんぜんダメでした。その時にはもう充分に糖分をとっていたので感じられなくなっていたのです。
 一番、私が楽しみにしていたことは、道場の最後の日に、ご草庵の中に入り唱題行ができることでした。34日目の3時ころでしょうか、最初は石の上に正座すると聞いていたのですが、各自ザブトンを持つように言われ、ご草庵の中に板敷きを踏みながら入らせて頂きました。結界(けっかい)というのはこのご草庵の中のことだと感じるほど、清浄で静寂な香ばしい木々の精気を感じました。
 唱題行が始まり、5分もたたないうちに隣の道場生が鼻血を出しました。その後、10分くらいでしょうか、私からやや右の上方にしかくい顔をされ眉毛の長い人が主任先生をジッと見ていました。薄墨色の本衣に五条袈裟でした。しばらくして、お祖師さまだと気づきました。身延山にお祖師さまはいらっしゃると確信した瞬間でした。それから尼さんが亡くなる昭和63年まで、毎月、身延山に上ったのです。
 今年の7月に弟子の真祥が信行道場に入ります。身延山に入り4年目なります。妙覚寺は東日教上人の教えを尼さんが受け継ぎ、そして、私達に伝えてきました。これからは、それを真祥に伝えなければと思っています。30年をへて私も初心にもどり、信行道場で書いた団扇太鼓を打っています。