余市の内田隆雄さんが中山の奥の院に参篭していたときが、ちょうど、東日教上人が身延弁天堂を開いたときでした。東日教上人が弁天さまを抱いて河原を歩いて弁天堂に入るときの写真があります。最初は木の箱を作りそこに安置して弁天堂に入る予定でしたが、内田さんの話では箱を作ってみると、あまりのも大き過ぎて手に持てないので、お姿をそのまま抱いて入られたとのことです。豊明さんが4歳ころのことといい、豊明さんもかすかに記憶に残っていると言っていました。
今、弁天堂は「弁天結社」になって伊藤上人の関係の方が跡を継いでいるそうです。4年前にお参りしたときにお留守でしたので、詳しいことはわかりませんが、中山の奥の院とは以前のような直接的な関係はなくなったのかと思われます。
尼さんが弁天堂で修業していたのは昭和20年代の中過ぎのころで、弁天堂の瀧、これを雄竜と呼んでいますが、この滝に打たれて修行していたときの新聞が残っています。ほかにも滝の前の写真があります。新聞に載ったのは5人で真冬の寒空の中での瀧行です。いずれ写真をこのホームページに掲載する予定でいます
このころの滝は胸ぐらいまで深さがあったとのことです。冬は氷が張るのでカナズチで割りながら滝まで行ったとのことで、体中が氷で切れて血が出ていたといいます。私が昭和40年代の中ごろに行ったときはまだ水深がありましたが、その後、石を入れて浅くなりました。私は10回ほど瀧行をした記憶があります。一番最初に行って滝行をしたのが3月ころで、頭上高くから落ちてくる水圧と、水深がだんだん深くなっていく怖さを覚えています。
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