日蓮聖人32歳のときに法華経を広めようと決心されました。最初の場所は得度をされた清澄寺でした。ここには虚空蔵菩薩が本尊として祭られており、日蓮聖人は虚空蔵菩薩に「日本第一の知者」となって仏教の真髄を悟らせてほしいと誓願を立てていました。清澄寺を立教開宗の地に選んだのは、このような理由がありました。
さて、32歳までの修学は当時の政治の中心であった鎌倉、そして、仏教の最高学府である比叡山に12年在籍して学ばれたのです。鎌倉や比叡山での生活については不明ですが、清澄寺が天台宗の寺院であるので、この系列の寺々に住み込み修行されたようで、比叡山に入って数年後からは奈良や高野山などの寺々を廻ります。そこで著名な学匠に自分の疑問を問うています。また、秘蔵されている経典や筆記録を見聞することが目的でした。
比叡山には僧兵という警護を役割とする僧侶や、事務・経理を担当する者、念仏を唱えお堂を掃除することを担当する者、そして、日蓮聖人のように学問を専攻するために入山している僧侶などがいました。
また、比叡山に入るには、それなりの身分が必要でした。日蓮聖人は漁師の子供と言っていますので、当時の公家や武家から出身した者とは違い、清澄寺を代表する僧侶として入山の許可を得ていました。清澄寺を代表するということは、修行を終えた後には清澄寺の住職となることを意味していました。清澄寺は房総を代表する大寺院でしたので、日蓮聖人の学力や人望がことに優れていたことがうかがえます。
比叡山の延暦寺と、その下の三井寺といわれる恩城寺とは対立していましたが、三井寺には延暦寺にはない円珍の秘蔵の書籍を所蔵していましたので、日蓮聖人はこちらにも数度にわたり滞在して写経をしています。これは、日蓮聖人の向学心と真摯な求道心が先徳に認められたからです。秘蔵された書籍や口伝といわれる書籍は、簡単に他門の者には見せなかったからです。日蓮聖人の人徳と仏教全般を把握する強い意識がうかがえるのです。
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