90.「立正」と「滅罪」

お盆の法要をおえると、日蓮宗の北海道地区の講習会があります。今年は南部の当番で札幌のホテルで3日間行いました。教学の勉強と、現代社会にいかに法華経を広めるかということで、各方面の先生にお話をしていただきます。今回は「メディア活用の戦略と実践」ということを課題としました。とくに新聞・テレビの現状と、創価学会の支配力を講演していました。
 「組織」「構造」「手法」そして、「戦略」。今、選挙を前にして創価学会は、とくに力を入れているとのことです。この教箋が読まれる頃は衆院選挙の結果がでていますね。
 日蓮聖人は『立正安国論』で、政治のあり方で国民の喜怒哀楽があることをのべています。現代は信仰と政治のつながりを分離しますが、日蓮聖人が現在にいたなら、不正をする者にたいして反省を求めるでしょう。「立正」とは、そういうことです。この基本であり理念とする教えが『法華経』です。
 人間は正と不正、善と悪をもっています。「一念三千」というのは、私たちのそういう欲や善心が3000あるということです。それが、一念という一瞬の間に3000もの心が動いて変化しているということです。
 「罪」や「業」(ごう)という言葉があります。罪を作らない行いが戒律です。方便品に「如是相・如是性〜」とあります。そして、「如是本末究竟等」と結ばれています。一言でいえば、「因果応報」を説いています。
 たとえば、私たちが悪い罪をつくったら、その罰を必ず受けるということです。抑止力を求めた倫理ではなく、私たちの肉体や現状の生活に、それがあらわれていると説きます。
 日蓮聖人が説く信仰は、どのようにしたら、この罪を償えるのか、という視点に立っています。「立正」というなかに、『法華経』を信じ、南無妙法蓮華経と自分も唱え、他人にも教えを広めるという行動を示されています。この行動に滅罪を認めているのです。
 この恐ろしさを身に知ることこそが、悪を止めることになるのです。人間は地獄絵のような罪業意識を常に思いながら生きていく、あるいは、人を苦しめれば、自分や家族もいずれ同じようなことになる、という先哲の教訓が必要な現代です。