92.見られている私たち
 平成に入り22年。
 熱湯の祈祷も22回を無事に行うことができ、有難く思っています。
 尼さんが初めて熱湯祈祷をされたときには、お芋を入れていませんでした。また、毎年、行っていたのではなく、3年を置いたりしていました。
 せっかくお湯を沸かすのだから、なにかを茹でたらいいねということで、お芋になったということです。芋は形が崩れずらいので、手を入れてつかみやすいということだったのです。
 その芋と茹でたお湯に、お経が入るので、思わぬ力がこめられました。とくに、「お水」といわれる茹でたお湯は、火傷や傷に効験を顕わしています。また、元旦の水行の水も数年を経ても痛まずに飲めます。胃腸などの回復に効くようです。
 年末になると、右手に手袋をはめていた尼さんを思い出します。百人一首のカルタ取りを、長年、お寺ではしていましたので、そのときに手を怪我しないようにとのことでしたが、お花を立てたり、雪かきも尼さんはされていたので、私たちが気を使って、手袋をすすめました。
 熱湯の祈祷は、法華経の経力を皆さんに示すことにあります。法華経の有難さを理解してもらう一つの手段になります。お経を唱え、お題目をお唱えすることによる霊験を知ってもらうことを願っています。
 一昨年の12月に、有難くもお祖師さまのお声を聞かせていただきました。自我偈とお題目です。元旦のときにお話ししましたが、お祖師さまのお題目は「南無」と、「妙法蓮華経」とが、はっきり区別されているようにお唱えしています。妙法蓮華経という法華経に帰依しますという意思がはっきり伝わります。まさに、法華経に説かれている事のすべてを信じ敬い、そして、従いますという信心の世界を感じました。
 私は法華経を信じ、お祖師さまに守られることを願って、修行を行っています。我が身を切る思いで修行をしなさいと、尼さんは教え自ら行っていました。弁天堂の滝に打たれるときは、夏は滝の上から岩が落ちる事を覚悟し、冬は氷を割りながら身を氷で切りながら滝に打たれ、しかも、氷が頭上から落ちてくることを覚悟して行を積まれました。
 お滝の川で毎朝、水行をしますが、冬は氷を割って川に入りました。そのときは、ただひたすら感応を磨くことを心がけました。尼さんの教えは、、「お祖師さまならどうされるか」という一言でした。
 私たちの日常の生活に、それを問うのです。靴の脱ぎ方。部屋の掃除は。服装は。髪や無精髭はないか。うそはないか悪欲はないか。言葉の使い方。行住座臥、自分を自分で見て、お祖師さまがどう思われて見ているかを、自身に問うことを教えらえたのです。
 さて、私の来年の熱湯祈祷の行は、元旦から始まります。