94.明鏡(めいきょう)

 鏡はどこの家庭にもあり、不思議なものと思う人はいないでしょう。しかし、鏡が発明される前は、桶に水をいれ、そこに写る顔を見て化粧したとは、誰も想像できません。日蓮聖人の「水鏡の御影」も、まさに、水面に映し出されたご尊顔を拝写されたものです
 高級な物は銅鏡でした。卑弥呼が尊重したのも、権力だけの象徴ではなかったからでしょう。三種の神器にも鏡が入っています。「八咫鏡」(やたのかがみ)といいます。これは、天照太神が天岩戸に隠れたときに、石凝姥命(いしこりどめ)が作った鏡です。直径 2 尺(46cm 前後)の円鏡といいます。
 現在のわたしたちは、「明鏡」といってもピンとはきませんが、鎌倉時代には貴重なものでした。日蓮聖人は、鏡にものの姿がそのまま正直にあらわれることから、
 「明鏡の物の色を浮かべるがごとし」
と、のべています。
 また、そのままの姿がうつることから、自分の邪心や我欲をはなれた真実のものを映し出すと考えられています。そこに、
 「法華経を明鏡とすべし」
と、法華経の教えを鏡として、ものごとを考えるようにと教えています。

 ところで、この鏡はいつまでも明るくきれいなものではありません。理容室や美容室の大きな鏡も毎日の手入れが必要です。どのような明鏡でも、磨かなければ「暗鏡」となるのです。日蓮聖人は信仰も、この鏡とおなじで、毎日、磨かなければ曇ってしまうとのべています。

 法華経の信仰は、自分の見た目の姿をきれいにするだけではなく、心や根性のなかにある罪業という汚れを清めるのです。私たちの明鏡はどこにあるのか、それは、皆さんの家におまつりしている御本尊さまが明鏡です。御本尊さまは、皆様の家庭の様子をうかべているのです。ご精進をお願いします。