97.日蓮聖人の用意周到な鎌倉入り                高橋俊隆

通説にしたがえば、立教開宗にいたる準備の段階から、日昭上人をはじめとした人々の動きがわかります。そして、鎌倉進出、名越に居を構えた理由が見えてきます。それは、まず、建長四年に日朗上人が弟子となり、翌年に「立教開宗」、その後、鎌倉に進出したのは同年八月ころとして、一一月には日昭上人が草庵に住居して、いわゆる留守居をまかされたと思われます。日朗上人は翌年に鎌倉に入室しますが、すでに、「立教開宗」後には、日蓮聖人と行動をともにしていたと思われます。

「立教開宗」後の二年ほどは、頻繁に各地を歩き、鎌倉にての地盤を築いていたはずです。日蓮聖人の信徒といわれる人たちが、この二年ほどのあいだに急激にふえたのは、辻説法の効果というよりは、前もって準備をしていた人たちが、時期当来の知らせを聞いて駆けつけたといえましょう。北条得宗の眼下に入るには、政権闘争にまきこまれることを覚悟しなければなりません。そのためには、用意周到に事を起こさなければならなかったのです。

草庵の場所を選定することにあたり、鎌倉に在住していた、比企能本・四条金吾の奔走、そして、日昭上人が日蓮聖人よりも早く鎌倉入りをし、権律師の僧官をかざして草庵を準備したかもしれません。このように考えると、いかに人脈が大切であるかがわかります。また、日蓮聖人を死守しようとした覚悟も伝わってきます。