ほとんど歩かなくなってしまい、出かけるときは車を使う。皆さんも、そうではないかと思います。
日蓮聖人の歩みを、ここ数年、江戸時代の史料を見て、調べています。はっと思うことは、日蓮聖人とお弟子さんたちは、歩いて移動していたことでした。
高速道路を車で走りながら、昔のアイヌの人たちは、江別と札幌、札幌と小樽などを歩いていたのかと、気が遠くなるような感覚で、車を走らせていました。携帯電話もない、コンビニもない時代に、家族との連絡や、食事など、どういう工夫をしていたのかと心配してしまいます。
人間ですから、寝て食べること、着て歩くことをします。鎌倉時代の日蓮聖人はどうされていたのかと考えます。伝記を読んでいると、横須賀の六浦から船で千葉県の保田まできます。横浜や東京を歩いてグッと回って歩くよりは時間も体力も違います。そこからは鴨川・清澄寺・小湊まで歩くのです。一時間に歩く距離は四〜五キロほどです。山があり谷があれば、もっと時間がかかります。
宿泊はおもに寺院をかりたようです。天台宗の寺院に泊まって、そこで食事もいただいたそうですが、ご遺文には書かれていません。千葉県に笹森観音という霊場があります。日蓮聖人はここの小堂に泊まっているときに、高橋時光氏、長南光重石などと交流をもちます。
村人の長となる人や領主、城主などのところにも泊まります。日蓮聖人の評判は、当時はよくありませんでした。念仏の信仰をしている人たちにしますと、念仏では成仏できないと言われるのは否なことです。天台宗の人は同じ法華経の信仰者ですので、日蓮聖人を受け入れやすいのです。
日蓮聖人はそういう村の長となる家に宿泊させてもらっています。諸国を歩いていると、いろいろな情報をもっています。村人の関心も、どこで何があったとか、美味しい食べ方がある、という話が聞きたいのです。軍事的な話から食べ物、着物、人の噂話など、重要な報道者でもあったのです。
もちろん、僧侶ですから、ご先祖の供養をされ、法門を説きます。このおりに改宗した人がたくさんいます。とくに、千葉県の鴨川、興津、茂原などは生家に近く、たくさんの寺院が建立されています。
日蓮聖人がいらしてる、日蓮聖人という法華の坊さんが来てる、という噂は広まりますので、良いことは招かれて接待を受けますが、ほとんどは貶されることでした。悪口雑言ならまだしも、阿弥陀仏の敵として、石を投げられ、木で打たれたりしています。身を隠して移動することもたびたびあったのです。
私たちは、原点に立ち、まず歩くことが大事だと思いました。私が先輩に昔のお坊さんは頭が良かったんですね、と言いましたら、それは歩いていたからだよと言われました。そのわけは、皆さんも歩いて考えてください。
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